先達に言われたこと 「お前は神を語れ」

 頭が悪い そもそも言語能力がいい加減 論理性に乏しい

 何回か仲間に指摘された

 それでも神を語る

 語るとは認知していることである 神を認知しているなどとは虚偽と傲慢の罪

 まさに地獄の底の鉛の池

 腰までつかったルチフェロから私の書き出しは始まった

 

 地上にあっては道化師 哀れな姿なのに真面目ぶって振舞う 

 しかし「お前は神を語れ」

 先達は私の霊性を感じ取ったのだろうが 霊性とは何か

 行によって開発されものではない 小学生三年生の頃 手にしたのが仏教説話だった

 記憶にあるのは「ウサギの布施(ジャータカ三一六)」のそえ絵だった

 それに鬼子母神の物語が印象に残る

 

  小学生四年生 正月のお年玉で買った最初のレコードがジュゼッペ・ヴェルディの    『アイーダ凱旋行進曲』 

 『アイーダ凱旋行進曲』はあのトランペット 一度に西欧的(といっても古代エジプトの物語だが)的世界に触れたのである

 今ならばドビュッシーの『海』を聞いていたらよいと思う しかし子供は行進曲が好きだ

 

 知の始まり

 時間と空間を超えて子供ながらの歩みを始める

 仏教と西欧的世界

 

 しかし知の始まりの前に 私の幼心にあったのは目に見えない神様であった 

 私とともにある神様を感じていた  私の神様 

 そして近くにあった諏訪神社 幼心の二礼二拍手一礼 お守りください

 在りて在る者 その領域をさまよえる子羊

 子羊ではない 霊性 プシュケー 魂 スピリッツ その芽生えである

 現実は身体的自己

 学校の教室の机 家に帰れば親の職業

 

 「いのち」 「ち」にあって身体的自己である

  「ち」から「い」の乖離 分離ではない 魂の行脚 と言うと何か頭陀袋をつけての姿が重なるが 目に見えない糸を引いての心の時空の検索

 ただ仏道ではその糸を切ってゼロの円座と そこに坐しての六波羅蜜である

 

 しかし神道では中今 「いのち」にあっての随神の道である

 万象の司の神 空間の法 そして時間の法 掟ではない 道にある 

 ただ 私の神様 甘えの構造があった

 

  思い上がりを恐れる それでも書き続けることが私の役割と自らに課す お許しを請う

 

 

  私は私の心を行・識・名色の識に位置づけたが vijnanaヴィジュニャーナの仏教学者の解釈とは異なる 

 名色を現象させるvi(分析・分割)+√jñā(知))の合成語であって その原意に理解する

 華厳で言うならば「仏の一心の作」 名色の未然における「仏の一心」である

 「仏の一心」の端くれ 一人の仏性におけるヴィジュニャーナ 宇宙・世界の生成を思念する

  

 

  心の行脚 言葉としてあるのはつぶやきである 語るではない

  つぶやきは己れの内にある つぶやきの中には私だけの世界があった

  本当の私 そこに私の神様があった

  神様を求めてのつぶやきの行脚

 

  私の神様へのたどり着き

  私は書いた

 「神を褒めたたえよ

  光り輝いて 温かく

  心解き放されて 和やかに

  愉しければ

 

  神を褒めたたえよ

  光り輝いて 温かく

  優しさが 優しさと向かい合い

    微笑みのあれば」

 そして

 「人は土を起こし

  土を砕き 種を蒔け

  神の与え給うたもののなかから良き種を選び

  育てよ

  五穀は大地に満ち

  単純な萼は花びらを重ねた」

 

 すでに土を失いつつある現在

 神とは何かが問われる時代である

 すでに三千年前 豊穣の祈りと感謝に神を祀る農耕の民の集落を襲って

 放牧と移動の民 鉄剣と騎馬の民 収穫を奪う

 そして権威と裁きの神に己れを結び付けて 農耕の民の支配の上に王国を作った

 現在 世界の指導者階層の 都市の高層建築の林立

 そして食卓の肉食 野菜は添え物である 農作物の大きな比率が家畜の餌 

 

 むしろデジタル時代 有機から無機の時代

  やがてはアバターとメタバースの世界

  しかし最先端の人間の知恵が明らかにする 量子のもつれとテンソル積 有機、無機を越えての神の定理 敢えて神の定理と呼ぶ

  改めて問う神とは何か 私個人にあっては甘えの構造だが

  アインシュタインにおける神とはなにか