東洋ではお釈迦様の無の概念 そして般若経の空

 無と空は別概念である 

 無は有の対語 否定と肯定 非存在と存在である

 空は実の対語 容器があっての空と実であり 容器とは閉空間である

 開空間では空と実は意味合いを持たない

 般若経の空 「照見五蘊皆空」 五蘊とは 色・受・想・行・識

 Avidya アヴィディヤ(無明) 幻想を伴う無知 そして煩悩と解説されるが

 十二因縁論(十二縁起論)の原点 

  行・識があっての名色であり 名色があっての六処であり 六処があっての・受・愛・取である   

 無(否定)の論理の中に無無明があったが

 学僧はそれを空と理解する

 空の義において法が成る 法は時空その広がりにある 

 それを格子場とゲージ理論にみる

 空は法に到る経過論である 法は一切を包む広がりにあった 

 その広がりの中に名色があり 六処があった

 その軸 スカンバの軸の周りに諸神が群舞する

 軸は時間論である

 空間論ではボイド そのグレートウォールに銀河群 星々の円舞 回転劇がある

 時間と場の理論

 

 龍樹の否定の論理 

 「不生亦不滅  不常亦不斷

  不一亦不異  不來亦不出」

 対立概念であっても二極対称である 一方だけでは存立しないのだ

 ヘーゲル弁証法では二項対立 アウフヘーベンにあってジンテーゼであった

 その究極は絶対精神である

 東洋の思考にあっては御中 玄にして無限小 拡延して無限大 点にして完結の円である 無ではない ゼロである

  

 周波数の連続性 意味と目的性と連続

 周波数は波動である 中心軸と上限と下限 二であり 対称である

 

 何故ひも理論から弦理論 ひもは引っ張りと緩みだが 弦に波動がある

 波動に高さと幅があった 空間とフラクタル(図形の部分と全体が自己相似)

 死の下限に生の上限 生の下限に死の上限 無常にして永劫回帰

 空にはまた 虚しさ‐うつろいの意味があった

 連続の余波 生死のたゆたい そこに物語りがあった

 「いのち」とはそのようにある

  

 一と0 存在と無 非連続の配列 そこには連続性の余波が排除される

 デジタル通信 音声信号や映像信号をデジタル信号に換えて行う通信

 一と0の波形に沿っての配列

 

 デジタル時空の完結性 一と0の概念

 しかし「いのち」がなかった

 所詮「いのち」とは無なのである

 東洋思考にあっては空の義 無常に人間の物語りがあった 

 スカンバの軸 神々の群舞 そこに愛と美があった

 

 ただ 仏教において時間の幅 華厳では三世平等と表現する 

 六次元の静坐観の菩薩の目は ダルマ(法)の三世平等の帯を見通していた

 そして 

「普賢の行ぜし所のもろもろの大願海を究竟し、………一切仏と等しく、一身一切の世界に充満し、刹も等しく、身も等しく、行も等しく、正覚も等しく、自在力も等しく、………仏の所住も等しく、大慈悲も等しく、不思議の法門自在力も等しかるべし。                  ―華嚴経 [入法界品第三十四之十七]―

 

 お釈迦様の涅槃 そのようにあるが

 死後の世界 実際は下層にあって現世の記憶 「いのち」の残影に

 蒸留されるのは愛である

 愛にあって和 諸々の精霊 中層に到る 和にあって円在 上層にあって神霊界

 円の完結性 西欧にあって絶対の一にとらえるが

 東洋にあってゼロの無限小と無限大 その円の完結性である 

 神道にあっては御中主 二神の和 八百万の神々 そして「いのち」の中今を語る

 

 「いのち」は愛の学びにあった 随神(かんながら)にして和である