確かに日本は情報産業で遅れた

  しかしそれは日本人の知能の劣性によるのだろうか

  神ながら言挙げせぬ国

 

  感性的なものずくり 縄文の昔 土偶・土器

  稲作文化の弥生人の移住

  天孫降臨(Y染色体D1a2a) 豊葦原の瑞穂の国であった

  支配と従属 豪華な宮殿 そして権勢誇示のの黄金文化ではなく

 白木の宮居である

  八紘一宇の和と平治 直霊の国であった

  

  東大寺の大仏 銅は約500t、金は440kg

  王侯貴族の権力誇示の 捕虜奴隷 そして強制により徴集された民衆による宮殿建造ではなく

  飢饉‐疫病に苦しむ民のための 平安祈願の 「民衆の力で大仏を造りたい」という聖武天皇の願いを受けて

 僧侶・行基(ぎょうき)が中心となって建立されたものである

 

  朝鮮半島での複雑な情勢 新羅の台頭と任那府の消滅 

  やがて百済の滅亡 白村江の敗北

  高句麗 そして隋・唐が関わった

  国内の政治権力も大きく変動した

  大伴金村の失脚 蘇我氏の台頭 聖徳太子も関わる物部氏との仏教をめぐる争い 

 物部氏の敗北

  大友皇子と大海人皇子の壬申の乱があった

  そして 中大兄皇子と中臣(藤原)鎌足による大化の改新である

    552年仏教伝来から 645年大化の改新 慌ただしい100年であった 

  そして飛鳥・白鳳・天平時代 華やかな仏教文化の興隆のようだが

  日本は大きな変動期にあったのである

  平安京は中国の長安城を模して建設されたものであった

  半島と大陸 日本は決して閉ざされた島国ではなく その情勢の中に晒されていた

 

  万葉集に奈良文化を読む

  「大和(やまと)には 群山(むらやま)ありと とりよろふ 天(あめ)の香具山(かぐやま) 登り立ち 国見(くにみ)をすれば 国原は 煙立ち立つ 海原は かまめ立ち立つ うまし国そ あきづ島 大和の国は」舒明天皇

  その自負を持ちながらの 半島と大陸との接触であった

 

  情勢と情報 相手を知ることは己れを知ることである

  迎合従属ではなく 相対的な己れの確立である

  優れたるものあればそれを学ぶ 学ぶことによる自立である

  百済からの多くの学識技能者の渡来 邑を与えて迎え入れた

  遣隋・遣唐使 多くの知識の学び入れであった

  全てが相対的な地位の確立のためにあった

  当時の中国は ササン朝・ローマ帝国にならぶ世界三大文化圏を形成する

   魏晋南北朝時代戦乱 隋による統一 均田制・租調庸・府兵制 それに科挙の導入

 国家の体制が整えられたが 煬帝の圧政

 唐の建国は618年である 衣冠束帯 確かな文明であ

 日本は中国に学び続けた ただし従属ではない 四書五経であり 漢訳仏教であり 冠位十二階制度である

 そして明治維新後西欧諸国に 第二次世界大戦後アメリカに

 学びの国であった

 島国という恩恵もあったかもしれない 万世一系二千年の歴史である

 幕末の国学者本居宣長が万葉世界を歌い上げている 「敷島の大和心を人問はば朝日ににほふ山桜花」

 平安に入ると

 「花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに」小野小町

 平安は陰陽道の世界に入っていた

 そして時代は移ろい鎌倉時代初期

 「見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ」 藤原定家 新古今集

 空海(774- 835)は 日本仏教の始祖ともいえるが 最澄の南都六宗

 平安末期には末法思想と言われるが 鎌倉仏教は特権階層から離れた衆生済度の仏教であった

 

 日本は学びの国だった

 島国であることによって他国の侵入を防ぐことができた

 大航海時代と植民地支配 ロシアの南下については歴史の流れである

 

 私は神道を自認する 「いのち」にあって中今に生きる

 人類は思考の動物である ただ実体を離れる時 自らの存在の否定となる

  生きることによる回帰 そこでの現状の認識

 

 情報の大事 学ぶことによって存在の自立 自立こそが情報の発信である

 しかし今情報の政治的経済的操作

 権力とそのための 権謀術策 情報操作

 

 その認識は持たなければならない しかし直霊の国

 確かに情報の操作は不得手であるが 時に 城外に出ての戦い  情報戦

 正しさの認識 その共有も必要であろう 

 「然れども言挙げぞ我がする 言幸くま幸くませと つつみなく……」