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 女装が似合うほどに優しい小碓命が 西方に熊曾建兄弟二人を討つ
 偽りのなかに討たれながら 建は御子を倭建と称えた
 覆奏して幾時もあらず 東方十二道の征討を父の皇に命じられて
 父の皇われにはやく死ねと所思ほしめすなりと 姨倭比賣命に患い泣きて罷る ヤマトタケルノミコトは 優しく悲劇的な英雄であった
 そのみことが 伊吹山の神の惑はしによって病をえて かむあがりました
 八尋白智鳥に化りて 天に翔りて 濱に向いて飛び行くみことを 后・御子哭く哭く追いて
  なづきの 田の稲がらに 稲がらに はひもとほろふ ところづら
  浅じぬはら 腰なづむ そらはゆかず あしよゆくな
  うみがゆけば 腰なづむおほかほはらの 植草 うみがは いさよふ
  はまつちどり はまよはゆかず いそづたふ
               ―古事記―
 しかし英雄時代は神々の下落と追放を意味していた
 そして英雄を殺したのは ひとの嫉みと醜い権力への欲望だった 

 すでに無明であり 怨念を積み重ねた
 廐戸皇子は 古き神々の亡霊を背負うた欲にかられた醜い氏族の集団を見ていた
 無明の十二因縁から解脱する為には 
 古き神々の亡霊をその肩から下ろさなければならない
 正しき神はひとの心の平安を保つものでなければならない
 世俗的な習慣に従うのではなく このわれの 知性にかなうものでなければならない
 皇子は 館の庭に 古き神々の叫喚を聞きながら
 三経の義疏の筆を執っていた
 一大乗に 真と 理と 善があらねばならない
 それはまた 国家を治める道である筈である

 儒教・仏教に啓蒙されながらそれは 神々と人間の知性との闘いであった
 しかし 太子薨後 太子の遺された妻子・子孫を攻め滅ぼしたのは
 仏教を奉じて太子の協力者であった蘇我氏であった
 中大兄皇子に従って蘇我氏を討って大化改新をなしたのは
 神祇を掌る家であった中臣氏であった
 中臣氏 後に藤原氏は公家となって京に止まり 地方の武家の台頭となった

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 284年 百済の王仁 論語十巻・千文字一巻を献じた
 391年 倭軍は朝鮮半島の半ばに到り 高句麗広開土王の歩騎五万と対峙した
 百済の聖明王が宮廷に仏像・仏具を献上したのは538年である 
 607年 聖徳太子が小野妹子を隋に派遣した
 663年 阿曇比羅夫に率いられた水軍戦艦百七十艘 
 唐と新羅の連合軍と白村江に戦い 敗れて半島経営は終わった
 天智天皇三年 壱岐・対馬・筑紫にさきもり・とぶひを設け
 筑紫に大堤・水城を築構して 大陸・半島からの侵攻に備えた 
 政治体制の強化の為に702年大宝律令が布かれ 律令国家の法制は完成され
 律令国家としての実効支配の為に 陸奥国に多賀城が出来たのは724年である

 伊治公呰麻呂に殺害された陸奥按察使はどのような行政官だったのか
二十年の抵抗の後 阿弖流爲は坂上田村麻呂に降り
 田村麻呂の助命進言にも拘わらず 公卿斬刑を裁定し
802年 盤具公母礼とともに 河内国杜山に斬られた
 東北の蝦夷が律令体制に組み込まれたのは それから以降である
 
 秋田城司の苛斂誅求に対し
 安倍鹿津奈が叛乱の戦をおこしたのは878年であったが
 出羽権守藤原保則は礼をもってこれを遇した
 夷俘長制度は温存され 後の奥六郡の安倍氏支配につながった
 
 平将門・藤原純友の承平・天慶の乱を経て 前九年の役・後三年の役がおこる
「(略)煙焔隨風著矢羽 樓櫓屋舎一時火起 城中男女数千人同音悲泣 (中略) 賊徒忽有赴外心 不戦而走 官軍横撃悉殺之 (中略)貞任子童年十三歳 名曰千世童子 容貌美麗 被甲出柵外 (中略)遂斬之 城中美女数十人   
皆衣綾羅 悉粧金翆 交烟悲泣 出之各賜軍士 (略)」  
    ―陸奥話記―

 
  殺戮のなかに 死骸の累々と重なるなかに 
源氏の台頭がある


 八幡大菩薩は神仏混合の神であった