感性

大分前だが、会合の後電車の中で友人にいきなり聞かれた。「これからは何が大事と思う?」私は答えた.「感性。」彼はすぐ言い加えた。「ただし論理に裏付けられた……。」
 
ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』(英独対訳版)の発行は1922年である。言語論理学のひとつの大成である。その7つの命題の7番目は「語り得ないものについては黙るがいい。」と書かれる。ウィトゲンシュタインはウィーン学派の学者との哲学論議の中でいきなりタゴールの詩の朗唱を始めた。
二十世紀の初頭は数学の時代だった。ダヴィッド・ヒルベルトは数学の無矛盾性を証明する『ヒルベルト計画』を立てた。これを打ち砕いたのが1930年9月7日に古都ケーニヒスベルクで開かれた第2回科学認識論会議でのクルト・ゲーデルである。不完全性定理(1931年)である。その会議にノイマンも出席していた。ゲーデルに賛同し、自ら「数学に矛盾がおきることを証明する手立てがないことを証明する論理式」をまとめたほどである。ーWikipediaー
数学は有効な方法論的道具である.しかし全てではない。ある数学者が「数学は感性である」という時、数学は島から島への羅針ではなく海のうねりに遊ぶ。或いはウィトゲンシュタインの言語遊戯論はこの辺にあったのかもしれない。
1+1=10の二進法の機械語によって構成されるコンピューターに依存する現在の知的生活。道具(原初の道具は石斧・石の刃の槍)は人類の生存を保つだけでなくその文明(銅剣・鉄剣・蒸気機関・発電機)の担い手でもある。コンピュータは偉大なる道具である。現代物理学・宇宙学だけでなく生活に深く関わる。1945年のフォン・ノイマンの『電子計算機の理論設計序説』(電子式、2進数、デジタル、プログラム内蔵方式)から始まり、1958年集積回路の完成によってコンピュータは第2世代に入ったが、現在の第4世代(1970年~)でコンピュータは、インターネットと結びついて一般家庭でも欠かせないものになっている。すでにコンピュータではなく「パーベイシブ・ユビキタス・コミュニケーションズ(PUC)」である。しかしアナログからデジタルの以降の中でハーモニーという言葉の中にあらわされる調和の感性は失われていった。アナログの連帯が失われ、デジタルの差別となった。それはノイマンの意図でないはずである

道具は対象との直接の接触を妨げる。しかし優良な農家は、耕運機の振動に大地を掘り起こす感触を得るであろう。土を分析器にかけることがたまたまあっても、習慣のように大地の色、大地の香り、大地の硬さ脆さを見,嗅ぎ、つまむ。身体と大地が接触を保つ。
 携帯のメールは距離と時間を越えて人と人との言葉のやり取りを可能にする。インターネットのブログでは見知らぬ人、それも複数の人との言葉のやり取りが可能である。言葉それも絵言葉入り。記号ではない、記号には数学的な厳密さがある。言葉の持つ意味の幅は排除されて、短絡される。「ダサイ」、「死ね」。人はやがてスマートホンのディスプレイの中だけの感性に生きる。
人と人とが直接対面しての会話には、いろいろな態様がある。情報の交換、討論、こころの通じ合い。そこには音声の変化、表情の変化がある。相手に伝えようとする努力があり、相手を理解しようとする努力がある。生きている存在同志の接触である。五感(視覚・聴覚・触覚・味覚・嗅覚)生きている身体感覚、傷(いたみ)、快(かい)、安(しづまり)、奮(たかまり)、それらは身体的感性であるが、五感の記憶と集積の上に、喜怒哀楽の感情が醸成される。健全なる感情は健全なる身体的感性の上にある。五感への刺激は、脳内自己(身体的自我・ego仏教では未那識)を活性化する。「ぽっぽぽ」は私は拒否するが、演奏・合唱は認知症治療に有効である。

 なによりも大事なのは、野に咲く小さい花を美しいと思う心、心の感性である。ソクラテスにあって愛は美であった。野に咲く小さい花を美しいと思う心、愛である。
草花に話しかけるやさしさ、人生をやさしく生きようと思う心、それは心の感性である。やさしさが心の感性なら、人と人とが思いやりに繫がるとき、それは心の安らぎである。この心の感性だけは死の間際まで(出来るならば死んだ後も)持ち続けたいものである。
心の感性には論理の裏付けは必要ない。心の感性によって喜怒哀楽の感情も浄化される。こころ、それは神にあっては愛、仏にあっては慈悲である。ただこころは澄浄を要求する。
それが怖い。大日如来の仏座の前に不動明王は厳しく立って、一切の不浄を受け付けない。
ただ私は不動明王のちょっとのやさしさにすがる。私は私の小さな小さな澄浄を保つ。

しかしなお感性における論理。ピタゴラスは「天界全体を音階(調和)であり、数である」といった。コンピュータによって分析され複合されてテレビに映し出される宇宙の星々の美しさは、まさに目を見張るものである。ギリシャの古代の時代から知性は美しさと喜びを伴なうものであった。それを知的感性と呼ぼう。感性は全体、または全体のなかの本質的なものを感受する。論理が先行するにせよ後追いするにせよ、それは無矛盾のためでなく、整合性のためである。ピカソの絵に、誰しもその全体に、すぐれた整合性を感じるであろう。宇宙の整合性は神のロゴス。揺らぎと二極対称とその破れは神のパトス。ビッグバンのインフレーションに先行して時間と空間の先天的形式があり,運動方程式がある。•楕円銀河・渦巻銀河・大マゼラン雲そして暗黒星雲、その多様性のなかにそれぞれの整合性、そして全体の整合性がある。

これは警告。ロボットの人工頭脳にすでに知的感性が埋め込まれつつある。ホーキングは人類の終焉を予告した。神のロゴスにおける感性、神のパトスにおける論理その全体が神における整合である。こころの感性、甘えの構造、いいではないか。しかし知的感性の主体を忘れてはならない。