歩み。
目的地を持つ歩み。目的地で為すことが待っている。そのために歩み。
目的地を持たない歩み。健康のための歩み。思索する(哲学か,作詞か)のための歩み。
 観察(田舎ならば路傍の花、都会ならば街並みの形態学・生態学)のための歩み。
 人生の歩み。四足動物はその立ち上がりが生きることの第一歩だが、人間は最初の泣き声(産声)が人生の第一歩。
 
 生きるとは時間の流れに乗ること。時間は単純に等速的な直線と考えられるが、事実は地球の自転と、太陽の周りを回る公転の刻みであり、然も地球の軸は傾き、太陽の周りを回る軌道は歪みを持つ(完全な同心円ではない)。そして地球の自転は夜と昼となり、太陽の周りを回る公転は四季となる。その地球の表面に生命が派生した。生命の歴史が始まる。そして「生きる」の歩み、四足動物の立ち上がりも、人間の産声も時間の乗り物に乗るための通過儀礼である。
 「生きること」の歩み。「生きる」の歩みはただ時間の流れに乗るだけだが、「生きること」は言、事。言は意味の表現であり、事は意味の絡み合いである。その意味をどの様に知るのか。その意味をどの様に明らかにするのか。その意味における主体でありうるのか。ただ意味の絡み合いの中に非主体的に埋没しているのか。
 ギリシャ神話ではプロメーテウスの火から人間の歴史が始まった。キリスト教では智慧の実を口にしたことでのエデンの園からの追放から始まった。
 そもそも揺らぎ〔弦理論〕とは何か。すでにそこには時間と空間がある。そして二極の対称とその破れ。そのビックバンが神の意志とするのならば、この宇宙、見上げる夜の空の星々にどのような意味があるのか。
 人間は勝手なことを考える。ソクラテスは徳への愛を語る。プラトンは至高善を想起する。アリストテレスは理性における幸福を考える。「大学」は明徳を明らかにすることである。キリスト教にあっては神への懺悔である。そして一日が過ぎる。一日を歩む。365日を歩む。3,654日を歩む、29,232日〔80年〕を歩む。
 日本の歴史は古事記では天津神達の言依さしで始まる。大祓詞では事依さしで始まる。そして随神の道であり、「おのがじし得たるまにまになるものの、つらぬくに高く直きこころもてす」(賀茂真淵_『にひまなび』)である。そのような万葉風(ぶり)がどの様にして「もののあはれ」に変わるのか。.平安貴族の栄華の陰に羅生門には鬼が住んでいた。
 ヒッグス場によって素粒子はMassを得た。「もの」の始まりである。素粒子は位置と広がりを得た。位置と広がりを持つこと、そこに形相が伴う。ものの形(かたち)である。
フラクタルは部分が全体を写すことによって安定する。複雑系は定型を内包することによって崩壊を免れる。形相はそれぞれの意味と役割によって決定される(アリストテレスの形相因)。
伊邪那岐神 伊邪那美神はすでに顕れの身であった。迦具土神を生んで神避坐した伊邪那美神を黄泉の国に尋ねた伊邪那岐神は、穢れを受けて紫日向の橘小門の之阿波岐原に戻ったが、、
 「禊祓は身の汚垢を清めるわざにこそあれ 心を祓い清むと言うは 外つ国の意にして 御国の古へさらにさることなし……… かにかくに心法のさだは私しことなり」
           ―本居宣長「古事記伝」― 
身は「もの」である。「もの」にも「け」(気・化)がある。
「さて凡そ神とは 古の文どもに見えたる天地のもろもろの神たちを始めて そを祀れる社に坐す御霊をも申し 又人はさらにも云わず 鳥獣木草のたぐひ海山など その他何にまれ尋常ならずすぐれた徳(こと)ありて かしこき物を迦微(神)とは云なり……」
―本居宣長「古事記伝」―
「あはれ」は「もののあはれれ」であって「こころのあはれ」ではなかった。「もの」によって「こと」を為す。或いは「こと」依さしによって「もの」を治める。本来随神のこころとは高く直きこころであった。

 朝の散歩は終った。さあ、昼の一歩が始まる。仕事着を着よう。昼の一歩は方向性を持つベクトル、Massが慣性エネルギーと重力エネルギーを運ぶ。具象の世界である。概念思考は実体把握に有効であるが、観察の対象、操作の対象は実体である。実体はまた慣性エネルギーと重力エネルギーを持つMassである。それが「くらげなすただよえる」様にあれば修理固成しなければならない。それが「もののけ」の「あやし」にあれば、鎮魂しなければならない。
 昼の歩みは継続である。禅坊主は偉そうに今に生きろと言うが「Was der Fall ist, die Tatsache, ist das Bestehen von Sachverhalten." ウィトゲンシュタインの第二命題である。歩みは一歩一歩,、時間の幅に四次元相を把握する。一歩一歩の積み重ねが何時か「在り続け得るもの」を理解するのだ。