アノマロカリスも神の所作と言うべきなのか
 補食動物には慈悲はない
 食物連鎖には慈悲はない
 生命とはそのようなものなのか
 ピカイアはただ逃げるだけである
 
 ピカイアのさきにミロクンミンギアがあった
最古の魚類である
 
 すでに述べたオアンネスは人面魚体だったが
伏儀と女媧は人頭蛇身で描かれている

          ◇         ◇

すでに重層・多様の世界である
 馬頭星雲は恐ろしい
 アップル宇宙望遠鏡で見たバタフェライ星雲は妖しいほどに美しい
 時間の幅で 星すらも消滅し生成する
それでも星座は 時間とともにあるスカンバに支えられている
 アヌンナキはシュメール人にその星座を教えた
 伏儀は八卦を画いて天地の理(ことわり)を教えた
紀元前91年「史記」天官書は二十八宿と90の星座 615星を明らかにしている
 
自己自身(Selbst)を包み越えた外の世界と その理(ことわり)を知り
 知ることの思考の中で 意識する主体としての我(われ)を見る
神は人間に 我(われ) Das Ichを与えた
そして人間は自らを律する
 それこそがホモ・サピエンス・サピエンスなのである

           ◇         ◇

揺らぎによる多様性の中で
神のロゴス 神々は統治の神であったが 
母神を慕いて「…啼きいさちき。其の泣きたふ状は、::是を以て悪(あら)ぶる神の音なひ、狭蝿(さばえ)如す皆涌き、萬物の妖(わざわひ)悉に発りき。」
事依させる国を治めず 神すらも斯くの如くであった 

 ディンギルの神が ストライキを起こしたイギギの代わりに人間を作ったという
我(われ) Das Ichは其の記憶を持たない
 「我(われ) Das Ich」は神から与えられたもの
 神性を持つ
 神性とは何か

 少なくとも
我(われ) Das Ichは時間の幅に思考し 非連続の空間を観察する
 
だからといって「我(われ) Das Ich」は神ではない
「一切は一心の作」其の「作」の自覚に「我(われ) Das Ich」はある

かく「我(われ) Das Ich」は自覚に於いてある
しかしフロイドにあっては「我(われ) Das Ich」は「自我ego」として捉えられる
「自我ego」は「自己自身(Selbst)」に絡み
 個の保存 種の保存 其の本能に絡む
 今に対応する受・想・行・識の経験知の堆積は「自己自身(Selbst)」の情報であるが
 「自我ego」はそこに遍計所執に執着する

 そうだ 神々ですらそうだった
 すでに個別であり 其の対称空間を統治することが事依さしだったのに
 その個別の系譜の中に遍計所執して災いを招いた

個別は 他の個別との関係において位置づけられ
 関係の集累積の上に現在があるのだが 依他起性…

           ◇         ◇

かって私は書いた
 「神を褒めたたえよ
 光り輝いて 温かく
 心解き放されて 和やかに
 愉しければ

 神を褒めたたえよ
 光り輝いて 温かく
 優しさが 優しさと向かい合い
 微笑みのあれば」                    
―「円在するものよ」―

 観想に思うこと
 心象に描くこと
言葉で思い
 言葉で描く 
 ウィトゲンシュタインはいう " Wovon man nicht sprechen kann, darueber muss man schweigen."
「子曰。予欲無言。子貢曰。子如不言。則小子何述焉。子曰。天何言哉。四時行焉。百
物生焉。天何言哉。」
―「論語」陽貨第十七―
 たしかに言葉によって神を位置づけることは 自己の観念にしか過ぎないが
 自我に於いてある自己自身(Selbst)の願望でもある
願望は悲願である
神々は悲願である
そして神々はその様にあらねばならない
神々は菩薩道を担うからである
 
           ◇         ◇

 対称認識の意識において 認知される事象又は物体は
 波動として表示され 波動は数式に転記される
 
 ピタゴラスは「アルケーは数である」と言った
  
 クルト・ゲーデルの「不完全性定理」は 「ヒルベルトプログラム」を終わらせた
 しかし揺らぎの事象も数式で表記されるのである(超弦理論)
 そしてそれは十一次元超重力理論を導くのである
 
 命題論理と述語論理の部屋に 私は入ろうとしたが
 その怪に恐れをなして 私は逃げ帰った
 神のロゴスの鬼っ子  
 しかしある人は 数学は最も美しいと言う

           ◇         ◇
 
 ある時 円盤からの使者が地球からの脱出を呼びかけてきた
 「すでに地球の軸は傾きかけている」
 その時 私は答えた 
 「確かに私には過去に宇宙からやってきた記憶がある
 しかし 長いこと地球に居た
 仮令それが阿鼻叫喚であっても わたしは地球の最後を見届けたい」

 しかしいいではないか
 太陽と地球の子として素朴に生まれ
大地を耕し よき種を蒔き その収穫を喜ぶ
生命は継承であり
家族であり
部族であり
あそこには緑の森 緑の野原
 さらさらと澄んだ水が流れている
 そのような夢を見ながら
 太陽の光芒に包まれて 消滅するのならば