「既生國竟。更生神。故生神名。大事忍男神。次生石土毘古神。
【訓石云伊波亦毘古二字以音下效此也】次生石巣比賣神。
次生大戸日別神。次生天之吹(上)男神。
次生大屋毘古神。次生風木津別之忍男神
…………………
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…………………
 凡伊邪那岐伊邪那美二神。共所生」
 国が生(な)り 神々が生(な)る
 国津神々である
 
国津神々に取り囲まれて縄文人はあった
  
 縄文時代の文化圏として九つの地域が挙げられている
 北海道からトカラ列島以南まで 九州南部は縄文早期に鬼界カルデラの噴火によって全滅したとされるが
 その地勢に応じ 狩猟・植生・漁労が行われた 縄文後期には九州北部にイネ・オオムギ 東日本からもソバの焼畑農耕の痕跡が見出されるとのこと
 
 私には梅原猛のようには縄文人の感情移入はない
 しかしどちらかと言えば私は長髄彦が好きである
 天の磐船に乗って降ってきた邇藝速日命を信じ 仕えてきたのに その邇藝速日命に殺されたのが悲しい
 どちらかと言えば私は熊曾建が好きである
 ただ剣を尻から刺されたくはなかった

縄文の人々は這うように生きていたかもしれない
獣のように森の下草の間を走り抜けたかもしれない
しかし 枝を組み 草葉を乗せ 小屋を組み 土間に枝木の火が点される時
そこに家族があり
やがて土を焼くことを知り 土器が作られる
 
 精霊は見ることは出来る 霊性の自覚である
 すでに霊性にある者 神の意識に連なる
 生命の或るところ 森も 野も 川も 海も そしてこの大地 山 空
 空は時に荒れる 雲が空を覆い 火の鏃を落とす 大水を落とす
 その間を空気が激しく走り回る
 静かなる時 慈父のようにその日(ひ)は暖かく しはわせである
 霊性は大いなる神を感じる そして祈る

 金田一 京助の『アイヌの研究』に次のような文章があった
 「猟に出ては山の林へ祈り、枝川の水神に祈り、狩の神に祈り、沖へ出て、風に遭っては祈り、雨に叩かれては祈り波に脅かされては祈り、猟がなければ、あるように祈り、あればあった喜びを告げて祈り、家にいても、不幸に祈り喜びに祈り、変災に祈り、病気に祈り、イナウ(祭壇に供える木幣)を掻けば祈り、酒を得れば祈る。」
 
          ◇         ◇

倭建命の御歌・
そこより幸行して能煩野に到りましし時に、國思ばして歌ひ給ひしく
 「倭は 國のまほろば 
たたなづく 青垣 
山隱れる 倭し美し。」

大和の国はまほろばの国である
 大和の民はまほろばの民である
 「冬ごもり 春さり来れば 鳴かざりし 鳥も來鳴きぬ 咲かざりし 花も咲けれど 山を茂み 入りても取らず 草深み 取り手も見ず 秋山の 木の葉を見ては 黄葉をば 取りてそしのふ 青きをば 置きてそ歎く そこし恨めし 秋山われは」
                               ―万葉集: 額田王―
 縄文人も弥生人も 大陸からの渡来者も日本の風土の中にいる
 
 時々我々は先祖返りする
 その前意識の神話類型は異なるかもしれない
 道は数本 それぞれの道を通ってきた
 
 そしてこの国
 まほろばの国である

「東日流外三郡誌」は偽書であるとされるが 陸奥の国および「つがる」の地方に栄えた集落があったことは確かである
 わたしは阿弖流爲と坂上田村麻呂が好きだ
 そして降った阿弖流爲の首を切った平安の京の官人を咎める
 中臣は忌部と共に神事に仕える連(むらじ)だった
 藤原の娘は巫女としてのみ宮廷に入る身分だったが
 天皇の后となったとき 藤原の仱慢が始まる

935年に平将門の乱が起こる
源信の『往生要集』が出たのは985年である

陸奥守であり鎮守府将軍となった河内源氏の源頼義は安部貞任と戦って苦戦したが
1062年(康平五年)九月"清原光頼の参戦によって厨川の柵・嫗戸の柵は落ちた
安部氏の滅亡は「陸奥話記」に悲しい
そして安部氏についた藤原経清(亘理権大夫)は錆びた刀の鋸引きで斬首されたのである
1063年(康平六年)二月頼義は伊予守となった
 律令制下に於いてすでに中務省に陰陽寮があったが
 やがて陰陽師が呪を唱える間にも 京の街に鬼が彷徨した
法然・親鸞の 平安末期の川原に死体が捨てられる暗い社会の救いとして どのような人でも出来る「念仏」専行の仏教が広がったのである

古今和歌集はもののあはれを時の移ろいに書き示す

もともと武士は官人であり 検非違使であり押領使であり そして征夷大将軍であり
地方官として国司・郡司であり 荘司・御厨司・郷司・保司である
そして氏であり 家であり 家人であり 郎党であり 徒士(かち)であり下僕である
北面武士のなかには僧侶・神官の身分の者もいた
鎌倉時代に入り 守護・地頭の制が布かれたが
畠山重忠は畠山荘司平次郎重忠である

家名の栄誉のために そして仕える主のために
「親討たるれども子引かず、
        ・・・ 子討たるれども顧みず進み戦ふ」
しかし畠山重忠は北条時政の後妻牧の方のからむ謀略の中で
武蔵国二俣川で わずか130騎_万余の北条義時の大軍の待ち受けにあって討たれた

「行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し。」
『方丈記』の巻頭文である

新古今和歌集になると 重層する影絵のように時間と空間は乖離してあやしの世界を美しく描く            
 開かれた空間と 閉じた空間の差異はあるが
 万葉の世界と古今・新古今の世界に共通するものは 自然の感性と人間の感性の交じり合いであったが
 鎌倉から室町に移り そこには『茶道』と『能』の『わびさび』と『幽玄』があった
感性をすら超えた心 
方丈の庵に神域の香りを啜り
霊域をすり歩く能面の翁
 
 文化の国風化という言葉が使われるが
 もののあはれは 日本の自然の四季に順化した日本人の基本的心情である
 和辻哲郎の『風土』という本が思い出される
 日本という風土の中で日本人という一つの民族が作り出された
 
藤原正彦の『国家の品格』を読んで友達の一人が言った
 「私は惻隠が好きだ」
 『惻隠』かわいそうに思うこと あわれむこと
 「孟子曰、人皆有不忍人之心…… 今人乍見孺子將入於井、皆有怵惕惻隱之心…… 無惻隱之心非人也……惻隱之心、仁之端也……」
                            ―孟子-公孫丑上[六]―
 しかし私の惻隠から受ける語感は異なる
 『惻』はいたむ かなしむ
 『隠』はかくる かくす かくして人に知らさぬ
 私はいたむ 私はかなしむ 私は 私のいたみ 私のかなしみを隠す
 そしてものみなすべてあはれである
 隠すが故に慮る それが惻隠の心である
 
           ◇         ◇

第三十三代 推古天皇554年~628年(在位592年~628年)以前の天皇歴は 太平洋戦争の敗戦の後 (継体天皇以後の系図はほぼ正確とされているが)歴史から消された
 古事記・日本書紀の物語として存するだけである
 古事記は日本書紀より物語的であるが
 そこには天皇家を中心とした日本人の神話類型がある
 粗暴なるが故に高天原を追放された須佐之男命であるが
 「八雲起つ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣作る その八重垣を」
 古事記最初の歌詠みである

「葦原の 瑞穂の国は 神ながら 言挙げせぬ国 
然れども 言挙げぞ吾(あ)がする
言幸(ことさき)く ま幸(まさき)くませと
つつみなく幸くいまさば 荒磯波ありても見むと
五百重波 千重波しきに 言挙げぞ吾(あ)がする」               
―人麻呂 - 万葉集 巻十三・三二五三 ―
戦後の国学者の解釈ではなく 私はそのままに読み取る
そして反し歌は
「磯城島の(しきしまの) 大和の国は 言霊の助くる国ぞ ま幸くありこそ」

 日本は豊葦原の 瑞穂の国 農耕の民の国である
 国司・郡司であり 荘司・御厨司・郷司・保司である者たちが
次第に中央の統制が乱れるなかで 農民を治め 農地を守る それが武士だった
 そして武士は 新田開拓に 農民と共に汗を流した
 平将門は下総毛野川(鬼怒川)の治水工事と各地の開墾をして 領民に慕われた
 
           ◇         ◇

 ミトコンドリアDNAによる系統分析でM7aというグループがある
 M7aの頻度の高い地域は日本列島や沖縄南部であり北上の上限がシベリアであったとの見方が主流とされる
 Y染色体による系統分析で日本人はD2系統とO2b系統を中心としているとされる
D系統はアジア人種よりも地中海沿岸や中東に広く分布するE系統の仲間であり
Y染色体の中でも非常に古い系統とされる
D2はアイヌ人・本土日本人・沖縄人に固有に見られ 朝鮮半島や中国人にはほとんど見られない
アイヌ系の人々にはその88%に見られる事から D2系統は縄文人(古モンゴロイド)特有の形質だとされる
ただD3がのチベット人々に33%見られる事が何か懐かしい
どてらの国ブータンは チベット系八割(ネパール系二割)の国である

梅原猛の縄文人の感情移入が理解できる
新潟中越地震に見せたが越後の人の我慢強さ 感謝の気持ち
東日本大震災で強く心を打たれたこと 食料を届けた若い自衛隊員に おばあちゃんが自分に分けられた食料の半分を「あなたも食べなさい」と差し出したこと 
縄文人である
稲作の鉄を持った弥生人は 越の国 陸奥の国の 土器に盛られた暖かい五穀の飯に同化されていった
たしかに常陸の国のように稲作によって人口は増大し 大きな集落跡も発掘される
防人の多くが東人だった
そして鎌倉武士である
戦時中最も強かった軍隊は第二師団である

ただ やはり
阿弖流爲の首を切った平安の公家たちが疎ましい