伏儀と女媧は人頭蛇身で描かれている
 
 『史記』三皇本紀によれば 伏儀は
 天象・地法を観察し 鳥獣を観察し 地の形勢を見極め
 天地の理(断り)を理解して八卦を画いたという
 「易に太極あり、これ両儀を生ず。両儀四象を生じ、四象八卦を生ず。」
―『易経』繋辞伝―
 そして祭祀とは 神霊祖霊を祭り 八卦により吉凶を定め 大業を生ずることである
 彭頭山遺跡とともに発掘された八十垱遺跡から 集落中央に祭祀を目的としたと思わ
れる大きな建物が発見された
 
 殷商王室の甲骨文を焼いて吉凶を卜する貞人は 王の専属の神官集団であった
 理(ことわり)を離れてただ吉凶だけを卜する事は やがて国を乱す
 凶兆を避けんがために牛、羊、家(いのこ・ぶた)の他に 
 時に外征によって捕獲した羌族の首を刎ねて 神霊祖霊の前に生贄に捧げた
 その様な生贄を受ける神霊祖霊は すでに鬼界の神である
 殷軍70万 周軍40万(周の文王その次男武王 その傍らに太公望がいた) 牧野の戦
いで周軍は殷軍を破った
 
 盤古開天闢地(ばんこかいてんびゃくち)は屍解創生神話である 
苗族系の大洪水の後の人類創生の伝説は 伏儀・女媧の兄妹婚による
 たとえ異形の神であっても 伏儀は泥で人間を作らず 人類は陰陽二霊の結びにあった
 伏儀は天地の理(断り)を理解して八卦を画き結縄の政事に代え
 漢代に班固が編集した「白虎通義」によると 家畜飼育・調理法・漁撈法・狩りを人類
に教え 婚姻の制度を定めたとある
 
そして八卦とは「乾・兌・離・震・巽・坎・艮・坤」
 それは行為の規定だった
 天地の理(ことわり)に従う行為の規定だった
 やがてそれは道となる
 
儒家は
 「大學之道、在明明徳、在親民、在止於至善。知止而后有定、定而后能靜、靜而后能安而后能慮、慮而后能得。 物有本末、事有終始。知所先後、則近道矣。」
―「大学」経一章―
 「顔淵問仁、子曰、克己復禮爲仁。一日克己復禮、天下歸仁焉。爲仁由己、而由人乎哉顔淵曰、請問其目。子曰、非禮勿視。非禮勿聽、非禮勿言。非禮勿動。顔淵曰、囘雖不敏請事斯語矣。」
                             ―「論語」顔淵第十二―

道家は
「道可道、非常道。名可名、非常名。無名天地之始、有名萬物之母。故常無欲以觀其妙常有欲以觀其徼。此兩者同出而異名。同謂之玄。玄之又玄、衆妙之門。」
―「老子」(道経)體道第一―   
 「致虚極、守靜篤。萬物竝作、吾以觀復。夫物芸芸、各歸其根。歸根曰靜、是謂復命。復命曰常、知常曰明。不知常、妄作凶。知常容。容乃公、公乃王、王乃天、天乃道。道乃久。沒身不殆。」
―「老子」(道経)―
 「道常無為、而無不為。侯王若能守之、万物将自化。化而欲作、吾将鎮之以無名之樸。無名之樸、夫亦将無欲。不欲以静、天下将自定。」
―「老子」(道経)― 
 
すでに明徳があり至善があり それを明らかにし そこに止まることによって靜心であり安心である
 仁は礼の形において表れる それは己れによるものであり他のよって影響されるものではない
 天は何も言わず四時行われ百物生じる 人間は礼の形において自らを律する
儒家にとって
すでにある明徳と至善は 人としての行為の規範であり 依拠すべき概念である
仁・義・礼・知・信の一処である

老子は形において道を説く儒家に対し 無形の道を説いた
天は道なり 天の道に従うことは 根に帰ること 根から出ずること
 「…有無相生、難易相成、長短相形、高下相傾、音聲相和、前後相隨。是以聖人、處無爲之事、行不言之教。…」
                          ―「「老子」(道経)養身第二―
道家にとって
道(たお)とは自然のままに生きること それは己の恣意と欲から離れることである
そして自然に対して心を開くとき そこに霊と魂の界があった

天地の理(ことわり)に従う行為である
 そこには泥で人間を作った神はいない
 そこには人間を支配し裁く神はいない
 神々は多様であり それぞれの界にあった
 神仙思想であり 抱朴子であり 
 山海経は本来地理書であったが異形の神々・妖怪を描く
 神々は自由闊達であり
なにか天帝のみが慎しまやかである