アージュナー・チャクラにあって 二枚の花弁の白い蓮華の座の瞑想となる

森の中の瞑想に 聖者ははヴェーダの神々を口承したが
アドヴァルユ祭官が神々を位置づけるとき ブラーフマナの時代となる
婆羅門 (ばらもん、brāhmaṇa ブラーフマナの音訳) は 土俗農業を侵略したインドアーリアン語族の社会の中
そのカースト制度の最上の階級となったのだが
農業放牧の国家から商業都市の国家に
インドラの時代からヴィシュヌ シバの時代に移る
ヴィシュヌ神もシバ紳も多様の神である
多様の神々は 一人一人の信仰と選択の前に現れる
 バラモン教からヒンドゥー教へ 
 ヒンドゥー教は神々と カーストを超えた民衆との世界だった
ヴィシュヌ神信仰 シバ紳信仰は民衆の選択である

紀元前五世紀頃にバラモン教の祭儀重視に批判的な仏教とジャイナ教が起きるが
魔王波旬はシヴァ神と同一視されることも多い
葛飾北斎はに釈迦と仏弟子たちのもとへ来襲する波旬を描くが 涅槃経では釈尊の涅槃を知って供養しようとして参じる波旬を説く
魔王波旬は天界で最上位の他化自在天の天主であった

森の中の瞑想は六派哲学に引き継がれた

六派哲学の論争のなかでインド古典哲学が確立したが
 ヴェーダーンタ学派の『ブラフマ・スートラ』の梵我一如は ヒンドゥー教の正統思想となる  
 シャンカラ(700年 - 750年頃)の説く「ブラフマンは人格や属性を持たない」とする無神論的一元論は 人格神としての神 の否定である
 梵我一如であり その梵(ブラフマン)は非人格の神である 宇宙の最高原理 世界創造の根本原理でもある 理(ことわり)としてある
 ヨーガ学派は『ヨーガ・スートラ』を基本経典とする
 『カタ・ウパニシャッド』6-11には [感官の確かな制御がヨーガである ]とあるが
 座法・調息・制感・禁戒・凝念・観想(静慮)・三昧の八階梯が挙げられている
 本来観想(静慮)・三昧により真我・解脱に至る修行の階梯なのだが
 今は座法・調息による心と体の健康法として道場に通う人が多い

 ヨーガのあってブラフマンはブラフマーとして人格化され
クンダリニーとなって 人体内に存在する根源的生命エネルギーとなる
そのクンダリニーが六つのチャクラを貫いてサハスラーラチャクラに至るとき 上位の意識界と連なる
鬼が重なって大地を支え ヴィシュヌ神がその体内に七つのチャクラを連ねて大地に立ち ヴィシュヌ神の頭上に意識界がある
意識界はまた七つのチャクラからなっていた
ヴィシュヌ神と人体は一体であり そのチャクラをブラフマーがクンダリニーとなって遡るのだ
アージュナーの観相である

一つ一つのチャクラの思い込みを離れて 瞑想が眉間の闇に入っていく 

瞑想にはサマタ瞑想(止)とヴィパッサナー瞑想(観)がある 止観である
「止」は「定」であり 「観」は「慧」である
観想(静慮)ディヤーナ(ディヤーン) 禅はこの語の音写とされる

六派哲学は思弁に走ることも多いが
サーンキヤ学派は精神原理プルシャと物質原理プラクリテの二元論だが
サーンキヤは「数え上げる」「考え合わせる」という意味で 数論派 数論学派とも言われる
上座部仏教の『阿毘達磨倶舎論』のような思弁による物質認識の限界を容認し
ブッディ(Buddhi, 覚)またはマハット(mahat, 大)を プラクリテの第一物質からの生命の派生と理解するとき
私は古代人の思弁に敬意を払う
ヨーガ学派の実践に サーンキヤ学派は教義として対応する
サーンキヤ学派の目的は ブッディ(自己)がプルシャ{神我)に入って 輪廻の苦しみから解脱することだった

サーンキヤ学派の思弁に 五唯から五大にいたるその五大の 四元素に存在と運動の場を与える空大(Ākāsh, アーカーシャ, 虚空)がある
場の理論である
場の理論はまた位相の論理である
しかしすでにアージュナー・チャクラは論理を超えた瞑想の座にあった

静坐観の菩薩はダルマの帯をその座下に見ていた

眉間の闇は 一切透過の闇である
「真空には、Aやψのような場の量が存在し、場の量は僅かに振動している。完全な「虚空」は存在しない。」
一切透過の闇に形相を見るとき ひとびとは第三の目という

瞑想の座にあって内観するとき 第三の目はその座下に五つのチャクラを見ていた

六派哲学にあって宇宙神ブラフマンは ブラフマーとして人格化され クンダリニーとして人間の生命を支えるが
 ヴィシュヌ神は人間と同相として描かれる
 ヴィシュヌ神と七つのチャクラの図は そのように理解されるべきなのか
 そして意識界とは 宇宙神ブラフマンのひろがり
 そこにも七つのチャクラが描かれるとは

 瞑想は静寂に坐して 観相するだけである