ヴィシュッダ・チャクラにあって表現となり

 表現は 音 言葉 形(かたち) その構造 動き

 言葉は神との会話から始まった
 ジュリアン・ジェインズの 内なる声との会話は 二分心として整理されるが
 身体的位相 {位置と相) の二極対称の揺らぎの幅に 内なる声との会話がある
 確かに 時間の幅に 過去相を見る
 心象の世界はそのような中でその広がりを持ったが

 「クンダリーニがヴィシュッダに到達すると、信者たちは、ひたすら、神について語り、神に耳を傾けたいと願うようになる」、とラーマクリシュナは語った。   ─ジョゼフ・キャンベル-(神話のイメージ)─

 澄淨は神を語らない ヴィシュッダは本来澄淨の意味だった
 澄淨は 神道では清明心の随神の道 キリスト者は「主よ わたしをあなたの平和の道具としてお使いください」
 ただ婆羅門は 神々を語ることによって神々を位付(くらいづ)けし 神々を位付けする者としての地位を持った 
 囀りは音の感性の意味的連続
 鳥は囀りによって神のパトスの 調和と均衡の美を教えてくれる
 語るとは言葉(意味)の論理的継続
 語る事によって人類は神のロゴスの領域に入った
 ただ婆羅門よ 森の瞑想によって 静寂のその思考に 美しい神々の詩を物語ってくれたが
 言葉の力に自らを権威づけるとき 言霊は力ある故に言挙げせぬもの 婆羅門はその澄淨を失った
 真言が加持祈祷に陥ったように

 十六弁のくすんだ紫色の蓮華の座 青色とも藍色ともいわれる 浄化の座 そのなかに白い空間がある
 「すべてのものがこの空間に溶解する」とはどのような意味を持つのか
 語りうる神は相対であった 揺らぎの幅の二極の相対 アナーハタはその幅をひろげたが 神を外に語るとは主体と客体の相対である
 或る人は言う 「ヴィシュダ・チャクラは 個我の最果てに位置するコーザル体の座である」   
 コーザル体は「原因身」と..訳されるが 二性併行と交差 とその時間幅 そして心象のひろがり の全体が 
 禊ぎと懺悔の沐浴のレーテーの川を渡るとき 開けし空の世界
 そこにダルマの帯が流れていて
 背伸びして覗き込む私は 確かなる主体である
 背伸びしてダルマの帯を覗き込む
 太陽の周りに太陽のダルマの帯があるように 地球の周りに地球のダルマの帯があるように ダルマの帯と言わないまでも それぞれの位相にはそれぞれの論理がある
 
 アナーハタ・チャクラにあって
 ただ生きるだけ の相関ではなく 時間の幅の残念(念を残す)ではなく 時間の幅を超えたひろがりに心象があるとき
 すでに個我は 個我のなかの抽象を意識していた 抽象は論理的概念性である
 心象にある神は 非論理的絶対性にあるのではない 二極相関の揺らぎの幅 時間における因果 を含む論理的概念性に神が抽象されるのである
 ただし部分の論理は全体の論理の完結性を表すことはできない

 ヴィシュダ・チャクラにあって
 論理が心象から乖離するとき
 新しい論理の世界が開かれる 非情である 地球は自転し 公転し 月による潮の干満があり 軸の傾きがあり
 それら複合の運動方程式は その解としての現象を現す
 二千年ベネズエラの洪水から二千十三年フィリピン台風までに すでに自然災害で七十八万人以上が死亡・行方不明になっている 
 複合の運動方程式には人類が加える変数があるが

 背伸びしてダルマの帯を覗き込む私が
 「光りが 自らの結晶に分光してエメラルド
 サファイヤーと輝き 帯と流れる
 その上に茎も短く薄薔薇色の花がのっていて一緒に流れていく」
 所詮背伸びした私 地{心の底辺}に戻って 疲れてうつつに死と再生を夢見たが
 「インドラのスペクトル製の網、その繊維は蜘蛛のより細く、その組織は菌糸より緻密に、透明清澄で黄金で又青く幾億互に交錯し光って顫えて燃えました。」
 宮沢賢治の百分の一にも至らない私の心象の高さ深さ 華厳経のインドラの網
 忉利天 須弥山の頂上 帝釈天の宮殿の大広間に張りめぐらされている羅網(珠玉を連ねた網)
 因陀羅網 帝釈天の司るところである
 神経細胞とシナプス その網によって身体情報が管理される
 しかし論理は規範であっても管理ではない ダルマは帯であって網ではなかった
 網の糸のよって結束された珠玉ではなく
 澄淨によって昇華したプシュケは宝石のように分光しながら ダルマの帯に乗って流れていった

 身体的自我でもなく Das Ichでもなく プシュケとは
 それは決してクンダリーニではない
 神のロゴスの属性―意識の領域
 意識の属性には光りもその分光もない
 ダルマの帯は神のロゴスの領域である
 ただダルマの帯は流れている
 澄淨によって昇華したプシュケは宝石のように分光しながら ダルマの帯に乗って流れていく
 プシュケはその質料を澄淨によって昇華した形相因と質料因である コーザル体として理解しようとするとき「身」は形相である
 ダルマの帯に乗って流れていくことによって 形相因はそのなかの目的因と動力因を示す
 そう 神に近い高級霊は明るく光る形相にあった

 神々はそれぞれの役割にある 
 
 「ダルマの帯といわないまでも それぞれの位相にはそれぞれの論理がある」と言った
 私は一つの位相でありうるのか 
 網の糸に結束されるものは光り輝くものであっても位相ではない


 星々はそれぞれの位置を保つ
 重力エネルギーと慣性エネルギー その複合トッ調和の中で 星々はそれぞれの位置を保つ
 グレートウォールは宙である 超空洞(ボイド)は宙である 宙は無ではない
 泡構造全体が力構造をなす
 その構造の静的動的調和と均衡と その変動指数の整合において そこに神のロゴスがある
 時に破れに構造がある 破れも予測された変数である 仏教において縁起は法であった


 ダルマの帯は 神の部分 球体 その集合にある
 私はその一つ地球の派生物 背伸びして見たのは地球のダルマの帯である
 そして私が私として意識するとき そこに私の位置があり相がある
 神のロゴスの属性としてある意識者よ あなたは宇宙に遍在してある 位相以前にあり すべての位相の場である
 私は一介のは派生物 しかし意識するものとして宇宙の遍在につながる
 その小さな小さな そのまた小さな小さな一片の論理がわたしのヴィシュッダに走る

 いい加減な論理 少ない表現力 
 だいたいお前は語彙に乏しい 意味不明の悪文
 弱い英語力 ドイツ語は擦るだけ フランス語は全く分からない
 そのようにわたしのヴィシュッダ・チャクラは貧しいが

 その私が アナーハタ・チャクラの名残りにあって夢を見る
 地球は宙に浮いている 太陽系は宙に浮いている 天の川銀河も宙に浮いている アンドロメダ星雲も宙に浮いている
 そしてゆっくりと回転する 少し上下をつければ そしてリズムをつければ 華麗なる円舞
 耳を澄ませが華麗なる円舞曲が聞こえてくる
 やがて巨大なる泡のまわりの 星々の集団の巨大なる輪 
 そのような泡が集まって宇宙の全体を形成する
 一人踊りはわびしいものだ もし一つ一つの星が男女二神の向かい合って手を組む姿だったら 宇宙は本当に素晴らしい




 アージュナー・チャクラにあって 二枚の花弁の白い蓮華の座の瞑想となる


 意識者よ 私があなたと語るのは神のロゴス 神のパトス 神の意志 そして部分神としての地球 太陽  
 部分神の集合としての銀河系 その中央には大きな重力源がある


 ダルマは法である 論理ではない
 法を外輪とするのは 円在の個体である
 その集合にあって 太陽のダルマの帯は太陽系全体の輪であり
          天の川銀河はその中心のブラックホールのダルマの帯が全体を囲む

 バラモン教からヒンドゥー教へ そして六派哲学の論争のなかでインド古典哲学が確立したが
 ヴェーダーンタ学派の『ブラフマ・スートラ』の梵我一如は ヒンドゥー教の正統思想となる  
 シャンカラ(700年 - 750年頃)の説く「ブラフマンは人格や属性を持たない」とする無神論的一元論は 人格神としての神 の否定である
 バラモン教からのインド思想は神々の世界だった
 ヴィシュヌ神信仰 シバ紳信仰は民衆の選択である
 梵我一如であり その梵(ブラフマン)は非人格の神である 宇宙の最高原理 世界創造の根本原理でもある 理(ことわり)としてある 
 支配神としての梵天はそこには存在しない
 ブラフマンには清浄・神聖なるものの意味もある

 心のひろがりの行脚のなかで 時間の幅を越えた心象の世界に入ったが
 黒い雲 雷光も走るが 白い雲 だんだんと澄んで そこに
 ダルマの帯が流れていた