私が子供の時
 最初に目にし記憶した文章は
  心清ければ(澄浄なれば)世界清し(澄浄なり)
心穢れたれば(汚濁なれば)世界穢れたり(汚濁なり)
 
小学校四年の時だった

 私は「澄浄」を畏れる
 「澄浄」の前で 私は自らの穢れを恐れる

           ◇         ◇

 「澄浄」は神仏の霊性である

 「清浄」と「穢れ」は 行者の規範である
 
 汚濁は内部の不純物
 この不純物をどのようにして排除するのか
 だからこそ神仏の「澄浄」の前に不動明王は立ちはだかる

 一切の不純なる者の入門を許さぬ
 断裁し 捕らえて足下に踏みにじり
 なお門前に屯す者 火をもって焼き尽くす

 私は「澄浄」を畏れる
 「澄浄」の前で 私は自らの穢れを恐れる

 洗い清めることの出来る穢れならばよし
 「汚濁」なれば どのようにして清めるのか
 
 私の「Ego」がそれを抱え込む
 私の「Das Ich」は距離を置こうとする
 
 私の意識者が教えてくれた
高幡のお不動様がお前に優しかったのは お前の「Ego」 お前の「Das Ich」に対してではない
 お前のどこかにある小さな小さな「澄浄」
 それはお前が神の子である証し 
 お前のどこかにある神の子としての霊性

           ◇         ◇

 白と黒の対極 
 別に輝度があり 色温があり
 その軸の周りを色が巡る
 そして明暗があり 彩度がある
 
透明とは 光が透過することであって可視光線の分光がない
 透明と色彩とは別の範疇である

 白と黒の対極 を繋ぐ軸は一神教の律と裁きである
 その軸を巡る色彩は 神々・諸仏の生命の多様への参加
 そして透明は聖者の観念である
 聖者は世事から離れる 白も黒も すべての色からも離れる
 或いは 聖者は透明からも離れる
 何もないことが一番の安心だからである

           ◇         ◇

 「Das Ich」は時に肉体から離れる
 「Das Ich」はプラトンの「プシュケpsyches」なのか

 「Das Ich」は思考する
 プラトンの「プシュケpsyches」は「至高善」への「エロス erôs」を持つ
それはすでにあるものの「想起 anamnesis」として位置付けられるが

 些か乱暴な捉え方であるが
思考は一枚の紙の上での函数式の展開である
 その思考の主体が「Das Ich」の属性としての理性である
プラトンにあって「実在と仮象」「イデアと現象」「理性と感性」そして「霊魂と肉体」
対称軸の二分思考であるが
「プシュケpsyches」は「エロス erôs」をどのように位置づけるのか

エロスは情動である
そのエロスが「理性」ではなく「感性」で
「実在」であり「「イデア」である「至高善」を「想起 anamnesis」で探し求める

情念は「今」を追う
 情念は存在を執着する
 そしてプラトンにあって「プシュケpsyches」は肉体の死後も存在し
 ピタゴラスあっては「プシュケpsyches」は輪廻転生する

アリストテレスは
形相と質料による個物が基本的な実在とし
可能態から現実態への論理的観察に理性を置いた

「Das Ich」は時に肉体から離れる
或いは「前頭葉のその中枢の座の 円錐の頂点に投影された仮の相」
―追章一意識者 04―遊戯―
その仮想空間
での意識者との会話から 私は多くを学習した

意識者は神の属性 
存在者ではない
意識者は一切の時間・空間に遍在して 
神の法において 神とその現象を語る

私にとっては「想起 anamnesis」の原点は「無」である
「至高善」でもなく
アリストテレスの「不動の動者」でもなく
ヘーゲルの「絶対理性」でもなく
創造と裁きの人格神でもない
                          
 神が笑って私を見ていた

           ◇         ◇

星々は神の部分 すでに個別であり それぞれの態様にあるが
一つ一つの細胞がDNAを持つごとく 神の定型を保つ
 一つ一つの星神の集団が島宇宙を形成する
 銀河である
 
 天の川銀河のひと隅にある太陽神の惑星である地球
 太陽系の空間に浮かぶ八個の惑星の一つ
 ある人は竜神と言った
 そこに海 空 陸 山 川 森があって生命が生(あ)れた
 それぞれの力とそのベクトルに対して国津神の尊称が与えられる
 
 部分の論理は 体系であり 組織であり 構造であり 役割である
 曼荼羅はひとつの界として描き上げる
 一枚の紙のようであるが
そこから空間が広がり 時間が流れてくる
 
 距離と時間
 ハイゼンベルクの不確定性原理を拡大すれば
 すべての情報は不確定性の上に成り立つ
 
全体は常に曖昧である
 全体は距離と時間と包越し 包含する
 変数を含むが故にその函数式は不確定である

曖昧である神の定型とは何か
 型でいえば 円であり 点であり 
 様態でいうのならば 零であり 零からの無限の拡がりであり
 暗闇であり 光りであり 白であり 黒である
 
神の属性はロゴス 安藤昌益は非情と言った
 パトスは神の揺らぎ 二極対称とその破れ 
ビッグバンにより宇宙が多様性に展開したが
それぞれが円であり 点であり 零であり 暗闇であり 光りであり 白であり 黒であり
或る人は宇宙を泡の集まりと表現したが
それぞれに域があり それぞれにダルマ(ダンマ)の帯が廻っている

そして光りに照り映える惑星に生命が誕生した
生命も神の揺らぎ 二極対称とその破れにあり
「生」・「老」・「病」・「死」と「愛別離苦」(あいべつりく)・「怨憎会苦」(おんぞうえく)・ 「求不得苦」(ぐふとっく)「五陰盛苦」(ごおんじょうく)を背負うて
調和と乱れ 善と悪 悲と慈 罪と罰
反対語と対語
しかし色彩は対極を繋ぐ軸を廻る神々の円舞
 それぞれの生き物はその生命の膜を透して それぞれの色を反す
 楽は苦の中に 苦は楽の中に
「Selbst」はその揺らぎの中にあった 
 
           ◇         ◇

「意念は精に従い 精は天地の気と通じ 気は神による」 
 何の文章から書き抜いたか 誰の言葉なのか
 情けないが覚えていない
 精は生命のベクトル それに意念は従う
 生きることの体験とその学習の総合と選択から 
意念は行動の規範を持つ
受想行識
「Selbst」は「色」と「受想行識」の前五識の主体である
 そして「自証分」の働きとして「Selbst」は「心所」となるが
 チァールズ・ダーウィンは 悲しみ・幸福・怒り・軽蔑・嫌悪・恐怖・驚きの七つが
 人間と他の霊長類に共通する基本的感情とした
 意念が感情と合わさるとき 情念として「Selbst」の部分となるが
 「Ego」(末那識)となって過去・未来が現在=今に執着するとき それは執念となる

 思念は言葉の論理性を媒体とする思考の意念である
 想念は「自証分」を離れた 或いは超えたベクトルの場での期待であり 願望であり 祈りである

 エネルギーが質量を持ち それぞれのベクトルによってそれぞれの域を形成しながら
 相互の関係と関係の集累積の多様性に 「Selbst」としての意念が産すヒ(霊)されたが
 存在者とは「今」にある意念者である

           ◇         ◇

 老賢者との会話
 大いなる意識者は 砂粒のごとき私を主体者と認めてくれた

アナログとデジタルと 音の速さと光りの速さと
 電波と光波
 如何に早くとも それは過去の事実の情報であり すでに新しき事態が生じている
 ただ真核細胞生命体が変化の速度を遅くした
 変化の速度を遅くすることによって 生命体は進化への体勢を準備する
 思考の時間の幅を持つ
 " Was der Fall ist, die Tatsache, ist das Bestehen von Sachverhalten."
 であり
 " Die Logische Bild der Tatsachen ist der Gedanke."
 である  
 そして
 " Der Satz ist eine Wahrheitsfunktion der Elementarsätze."
 であるが ウィトゲンシュタインはその限界を予測していた

 不確定であり 曖昧であり また
 " In jedem formalen System der Zahlen, das zumindest eine Theorie der Arithmetik der natürlichen Zahlen ( ) enthält, gibt es einen unentscheidbaren Satz, also einen Satz, der nicht beweisbar und dessen Negierung ebenso wenig beweisbar ist. (1. Gödelscher Unvollständigkeitssatz).
Theorie der natürlichen Zahlen ( ) samt Addition und Multiplikation enthält, sich Daraus folgt unmittelbar,dass kein formales System der Zahlen,das zumindest eine innerhalb seiner selbst als widerspruchsfrei beweisen lässt (2. Gödelscher Unvollständigkeitssatz). ."

クルト・ゲーデルは難しい なにか竜樹を思い出す 
 晩年はライプニッツの「神」の証明を試みた
 クルト・ゲーデルは アリストテレスよりもプラトンを
 デカルトよりもライプニッツを選ぶ
 そしてフッサールを挙げる
 イデア論があり 予定調和論があり 解釈学がある
 若し彼が「超弦理論」や「CP対称性の破れ」の理論を知っていたら……
 と思う

 それぞれの部分はそれぞれの「ダルマ」を持っている 
 「すべての(芸術等も含めた)問題に答えを出すために、形式的な方法がある。」
 しかし
 「現在知られているより、比較にならない多くの知識が、ア・プリオリに存在する。」
         ―高橋昌一郎『ゲーデルの哲学 不完全性定理と神の存在論』より―
 部分の「ダルマ」はより上位部分の「ダルマ」に包含される
 そしてその全体は揺らぎと二極対称の破れから生じた
 「ダルマ」は現象の法則である
 
           ◇         ◇

 意識者は 揺らぎと二極対称の破れを 神のパトスと表現した
 パトスから神を思う時
「生」・「老」・「病」・「死」と「愛別離苦」(あいべつりく)・「怨憎会苦」(おんぞうえく)・ 「求不得苦」(ぐふとっく)「五陰盛苦」(ごおんじょうく)を背負うて
調和と乱れ 善と悪 悲と慈 罪と罰
 
神様 助けて下さい

神を「神様」と呼ぶ時
私は 
私の穢れを恐れる