「我」。
 脳科学では、自我とは脳のある特定のメカニズムにより生じます。 霊魂が肉体とは別に存在していると考える「二元論」に対して、自我とは肉体である脳に依存すると考える「一元論」が唱えられます。 人間が行動を起こすとき、脳の頭頂葉に運動準備電位という活動が起りその0.35秒あとに、「意思」が発生する、つまり人間は霊魂による意思の操作で肉体が行動を起こすのではなく、肉体の活動の結果として「意思」が生まれているというわけです。 肉体に霊魂が宿って、霊魂の意思で肉体を操っているのなら、この時間差が発生するのはおかしいと言います。
 澤口俊之(生物学者、脳科学評論家)の見解では、人間の自我というものは前頭連合野という脳部位を中心とした活動であり、 前頭連合野の背外側部、とくにその46野は脳の「最高中枢」にあり、そしてその部位にある「自我」とはワーキング・メモリ(作動記憶Working Memory)が関係しているそうです。昔々パブロフの条件反射論がはやったことがあります。スポーツ選手が反復練習をします。 状況に対する運動反応は、運動中枢の記憶として小脳に送られ、その繰り返しと積み重ねの間に、反射的な運動機能が作られる。繰り返しと積み重ねの練習は意思です。結果としての反射的な運動機能はワーキング・メモリです。
 ワーキング・メモリは行動や決断に必要なさまざまな情報を一時的に保持しつつ組み合わせ、行動や決断を導く認知機能であり、思考や推論、計画などの高度な精神活動のベースとなっているとされます。このワーキングメモリの過程が自我の正体と言い切ります。ところで、センサーで行動する高度なコンピューターのロボットがその学習の累積の過程で(深層学習)、組み込まれたプログラム以外の反応の選択をなしたとき、そのロボットに自我が発生したと言えるのでしょうか。物理的な物質である脳から「心」が生まれるのなら、ロボットにも「心」が生まれるのか。脳科学によって脳疾患の治療も大いに進みました。脳科学の進歩はすばらしいです。しかし私は澤口俊之には従いません。
 脳は生体物質です。脳はいのち(生命)の上にあるのです。脳は生命の物象としてあるのです。あえて言えば道具です脳は生体物質有機化合物の突然変異に生命の発生を説明するしかありませんが、突然変異は説明外要素、即ち未知の領域です。そもそも脳の頭頂葉に運動準備電位という活動が起こる動因は何なのか。この説明がない限り理論は成立しません。霊魂は物象としての確認は困難です。困難であるとは否定論理ではない。生命は物象としてその存在が確認できる。しかし物象としてのその存在確認は生命の概念のすべてを包括するものではありません。
 自我は個別の生命の、その生きる意思としてあります。生きる意思と言う以上動物にも植物にも自我があります。植物には脳はありません。しかし個別の生きる意思は持っております。ただ「思(おもい.)」は植物にあるのか。皆さんは勿論ないと答えるでしょう。私はあると思います。蜂を呼ぶために一生懸命きれいな花を咲かす。蜜をためる。香りを放つ。同窓誌「NU7 2016,01 No3」に高林純示(京都大学生態学研究センター教授)の「植物は香りで害虫から身を守る」の.話が載っていました。モンシロチョウの幼虫アオムシに葉を食べられた植物が、香りを出して寄生蜂のアオムシコマルバチを呼ぶ話です。これは花が蜜をため香りを放つとは違い、確かな個別的事象です。
自我の概念整理が必要です。日本語とドイツ語を並べてみました。自己自身Selbst besitzen。自己Selbst。私Das Ich。そして自我Ego。.英語では自己自身Self own。自己self。私ThatI 。そして自我ego。1953年にジェイムズ・ストレイチーによりフロイト翻訳全集の英訳の際、Das Ichはegoと訳されましたが、egoは.ラテン語、一人称単数主格「私は」。
  脳科学の理論でいけば0歳児には自我はないことになります。脳の発達とともに自我が発生し、そして成長することになります。脳の物理的化学的変化の中に物象として捉えられる作動とその複合の、ベクトル主体が自我と名辞されるのです。
 フロイトの自我は身体的無意識(イド)の上にある自己主張主体であり、反省的規範の無意識としての超自我の制御を受けます。
 ユングの自我は集合無意識の神話類型に触れながら、意識における意志の主体と考えられます。集合無意識において身体の個別を離れます、それは意識の原点として時間の幅を
遡ります。
 フロイトとユングに共通するのは、精神分析医であることです。セラピーとしての心象の分析です。そのような中に自我が位置づけられます。ただユングは集合的無意識のひろがりの中に自我を置くことによって、自我はEgoではなくDas Ichとして、動体主格ではなく存在主格として位置づけられます。それは世界内存在としてのDas Ichであり、曼荼羅の世界のDas Ichでもあります。
 動物生態学で群れの集合意識があります。植物における群生があります。動物・植物に自己自身Selbst besitzen、自己Selbst、私Das Ich、そして自我Egoという言葉は確かに相応しくありませんが、ただ生きる意志の個別性と集団性は人間と同じように共有しております。
 そもそも意識とは。それが明らかにされなければ自我も明確な概念規定は出来ません。
 「脳内の神経細胞にある微小管で、波動関数が収縮すると、素粒子に付随する基本的で単純な意識の属性も組み合わさり、生物の高度な意識が生起する。」ロジャー・ペンローズ スチュワート・ハメロフ。
 「心とは、記憶を蓄えた脳組織から絶え間なく生み出される光量子(フォトン)凝集体であり、場の量子論によって記述されるその物理的運動が意識である。」保江邦夫。
 「脳内でのニューロンの時空間的な発火パターンに対応してクオリアが生起している。」茂木健一郎。
 私は保江邦夫の説が面白い。Massを持つ素粒子の発生と同じ過程で意識の発生を解いています。ただそこに主体という概念を導入するかしないかで認識が異なります。
 意識一般という哲学の概念があります。ユングの集合無意識はこの範疇に属します。集合無意識のひろがりの中にあって、Das Ichは場の意識論に位置します。
 私なりの概念整理をいたします。身体的自我をegoとします。集合意識(集合的無意識ではありません)との相関における自己をSelbst とします。意識一般を場とする思考主体をDas Ichとします。