2.光秀は、出世レースで先を越された秀吉を、妬んでいたと
する説がある。実際に主君信長は、光秀よりも秀吉を重用して
いたのだろうか?
山崎の戦いで光秀を破り、天下人となった羽柴(後の豊臣)秀吉。
新参者として織田軍団に加わった光秀と秀吉は、出世を争うライバル
関係にあった。このことから、光秀は信長に重用される秀吉を妬んで
いたという説がある。その嫉妬心もまた、光秀を謀反へ向かわせた
重要な要素だというのだ。
ことある事に信長に重用され、出世を続ける秀吉を、妬んでいたと
する説は少なくない。しかし二人の経歴を振り返れば、この説もまた
根拠のないものである事が分かる。
1554(天文23)年頃から信長に仕えていた秀吉は、1568(永禄11)年
に初めて信長に会った光秀の“先輩”で、光秀が信長の家臣となった頃
には、秀吉はすでにかなりの地位にあった。しかし、信長からの寵愛を
受けた光秀は出世街道を邁進し、楽々と秀吉を追い越してしまうのだ。
光秀は秀吉より約1年半早く一国一城の主となり、1575(天正3)年には
丹波攻めの大将に昇進。秀吉が中国攻めの大将になったのは、この2年後
のことである。
更に1580(天正8)年には、信長は近畿の総司令官ともいえる地位に光秀
を据えている。これは、織田家筆頭家老・柴田勝家に並ぶものだ。
信長はこの時、「丹波での光秀の働きは天下に面目を施した。秀吉も
数カ国を手に入れた」と書状に記し、光秀の功績を第一に褒め称えている。
また、1581(天正9)年{本能寺の変の1年前}2月28日、信長は京都で
信長軍団の武威を示す“軍事パレード”を行った。この“軍事パレード”
は織田家にとって重要なイベントであった。信長はこの重要なイベント
の総責任者に光秀を指名しているのだ。少なくとも、本能寺の変の1年前
までは、信長は光秀を最も重用しており、嫉妬するとすれば、やすやすと
新参者の光秀に追い越された、秀吉の方だったと考えられるのである。
織田軍団における光秀・秀吉の比較
明智光秀 羽柴(豊臣)秀吉
信長との出会い 1568年 1554年頃
城主となった年 1571年(坂本城) 1573年(長浜城)
総大将となった年 1575年(丹波攻め) 1577年(中国攻め)
下賜された姓 惟任 なし
1582年頃の石高 34万石 20万石

羽柴秀吉
する説がある。実際に主君信長は、光秀よりも秀吉を重用して
いたのだろうか?
山崎の戦いで光秀を破り、天下人となった羽柴(後の豊臣)秀吉。
新参者として織田軍団に加わった光秀と秀吉は、出世を争うライバル
関係にあった。このことから、光秀は信長に重用される秀吉を妬んで
いたという説がある。その嫉妬心もまた、光秀を謀反へ向かわせた
重要な要素だというのだ。
ことある事に信長に重用され、出世を続ける秀吉を、妬んでいたと
する説は少なくない。しかし二人の経歴を振り返れば、この説もまた
根拠のないものである事が分かる。
1554(天文23)年頃から信長に仕えていた秀吉は、1568(永禄11)年
に初めて信長に会った光秀の“先輩”で、光秀が信長の家臣となった頃
には、秀吉はすでにかなりの地位にあった。しかし、信長からの寵愛を
受けた光秀は出世街道を邁進し、楽々と秀吉を追い越してしまうのだ。
光秀は秀吉より約1年半早く一国一城の主となり、1575(天正3)年には
丹波攻めの大将に昇進。秀吉が中国攻めの大将になったのは、この2年後
のことである。
更に1580(天正8)年には、信長は近畿の総司令官ともいえる地位に光秀
を据えている。これは、織田家筆頭家老・柴田勝家に並ぶものだ。
信長はこの時、「丹波での光秀の働きは天下に面目を施した。秀吉も
数カ国を手に入れた」と書状に記し、光秀の功績を第一に褒め称えている。
また、1581(天正9)年{本能寺の変の1年前}2月28日、信長は京都で
信長軍団の武威を示す“軍事パレード”を行った。この“軍事パレード”
は織田家にとって重要なイベントであった。信長はこの重要なイベント
の総責任者に光秀を指名しているのだ。少なくとも、本能寺の変の1年前
までは、信長は光秀を最も重用しており、嫉妬するとすれば、やすやすと
新参者の光秀に追い越された、秀吉の方だったと考えられるのである。
織田軍団における光秀・秀吉の比較
明智光秀 羽柴(豊臣)秀吉
信長との出会い 1568年 1554年頃
城主となった年 1571年(坂本城) 1573年(長浜城)
総大将となった年 1575年(丹波攻め) 1577年(中国攻め)
下賜された姓 惟任 なし
1582年頃の石高 34万石 20万石

羽柴秀吉