祈るから気付かせて下さる、というお陰様の体験は信仰ある方なら誰しも経験があると思う。
しかし祈りの方向性というか質というか、そういうのが往々にして的外れになってしまって、大いに勘違いすることが多々ある。
祈ってるからOK、自分中心の欲望を祈っていないからOK、みたいな感じで、内省が甘くなりがちになるときだ。
この一七日間は思うところがあって法華懴法をおつとめさせていただいた。
これは妙法蓮華経を舞台にとことん感謝と懴悔をしていくおつとめであって、これを作られた方々(天台大師~慈覚大師とのこと)の思いが伝わってくる。
今日結願したのだが、ある出来事によって自分のあまりに高慢で謙虚さに欠ける一面を思い知り、これはいけないと気付くことが出来た。
今気づくことが出来なかったら、きっとますます心の中で天狗の鼻が伸びていって大きな過ちを犯すことになったかもしれない。
よくよく懴悔して自分の心癖というものを忘れないようにしなくてはいけない。
こういうことがあるので、神仏には日々感謝させて頂きたいと思う。
祈っていなければ気付くことが出来なかった、私はそういう人間なので、これからも忙しくても怠らないようにしていかねば。
そう、どうせすぐ忘れてしまい同じ過ちを繰り返して…という前提であってもだ。
懴悔というと多くの教団で用いられる懴悔文は短いのでスルスルと唱えて終わりになりがちだけれども、味わって読むといいのだろうなと思うようになった。
真言宗でよく用いられる密厳院発露懴悔文というものもあり、実に耳が痛いがとても大切なことが書かれている。
懴悔にまつわる経文をかみしめて、我が身の事として真剣にとらえていくことで気付けることがあると思う。
それが自分事でなく「アイツのことだな」とか思い始めたらもう最後だ、ジ・エンドである、自戒せねばなるまい。
心から自分を顧みて仏の道、神々の喜ばれる道に沿っているかどうか、判断することはすごく難しい。
自分を客観視することは大変なのだ、心おきなく「お前はこういうところがあるよね」と言ってくれる人が近くにいると、鬱陶しいかもしれないが、実は幸せなことなのだな。
せめて祈るとき、おつとめの時ぐらいは、赤裸々に懴悔して生かされている感謝をしていく大切さを、改めて強烈に感じるところがあったのでブログに記載しておこうと思う。
本来自分の修行を他人に晒す必要など全くないし、むしろ徹底して避けるべきことだし、読んでも面白くもなんともないが、ここは敢えて…冷静になったら消すかもしれないけれど。
成道会の日に、南無釈迦牟尼仏