あの時の俺よ、教えてくれ!
あれから一年が経った。
一年という時間が流れ、あの日のことを何度も思い返そうとする。
けれど、思い出せない。
記憶をたどろうとしても、そこにはぽっかりと穴が開いている。
だから、あの時の自分に問いかける。
「あの時の俺よ、教えてくれ」
その時、お前は何を考えていた?
何を思っていた?
何を感じていた?
もちろん、答えが返ってくることはない。
そんなことは分かっている。
それでも、考えずにはいられない。
帰ってくることのない答えを求めて、俺は今日も記憶の糸をたぐっていく。
「あの時の2」
あの日、俺はいつものように仕事を終えた。
部下に、
「今日は銀行に寄るから、少し早めに帰るよ」
そんな他愛のない会話を交わし、いつものようにバイクで帰宅の途についた。
ただ、その日は銀行に寄るため、いつもとは違う道を走った。
それが、あの事故につながることになる。
何もなければ、仕事場から自宅までは10分ほど。
銀行に寄ったとしても、20分もあれば家に帰れるはずだった。
残っているわずかな記憶と、後から確認できた通帳の記帳時間などを照らし合わせると、銀行には10分ほどで無事に到着していたのだと思う。
もちろん、それも確かな記憶ではない。
銀行で用事を済ませ、再び帰宅の途につく。
あと10分も走れば、家族の待つ自宅に着く。
いつもなら、それで一日の仕事が終わるはずだった。
しかし――
その日の俺は、自宅に帰り着くことはなかった。
「あの時の3」
銀行を出た後のことは、どれだけ記憶をたどっても思い出すことができない。
そこから先の出来事は、後に意識を取り戻してから、家族や警察、医師、看護師、そして事故現場で対応してくれた方々から聞いた情報をつなぎ合わせていくことになる。
俺自身の記憶ではない。
だから、そこにはどうしても埋められない空白がある。
その空白の向こう側で、俺はいったい何をしていたのだろう。
「あの時の4」
銀行を出た俺は、自宅まで直線距離にして数十メートルほどの場所まで戻ってきていた。
そして、その場所にある信号のない交差点で――
あの時を迎える。
「あの時の5」
銀行からの帰り道。
何度も通った、いつもの道。
俺はいつものようにバイクを走らせていたはずだ。
家族が待つ自宅までは、もうすぐだった。
住宅地によくある、信号のない四つ角。
そこに差しかかった時、右側から自転車が飛び出してきた。
これは後に警察から聞いた話だ。
俺は、とっさに自転車を避けた。
そして、バイクとともに転倒した。
そのまま路面を滑り、10数メートル先で止まったという。
事故の大きな音に気づいた近所の住民が現場を確認し、通報してくれた。
そして俺は、救急車で病院へ運ばれることになる。
「あの時の6」
意識が遠のき、血だらけになって倒れていた俺。
どうやら頭をかなり強く打ったらしい。
ヘルメットの中は、血でいっぱいになっていたという。
その時、俺は何を感じていたのだろう。
痛かったのか。
怖かったのか。
何が起きたのか理解していたのか。
それとも、もう何も分からない状態だったのか。
俺には、その答えがない。
「あの時の7」
血だらけで倒れていた俺のもとに、通報を受けた救急車と警察が到着した。
その時、俺にはまだ、かろうじて意識があったらしい。
救急隊員や警察官から声をかけられ、それに対して受け答えをしていたと、後になって聞いた。
名前など、簡単な質問には答えていたらしい。
その話を聞いた時、俺はふと思った。
「あの時の俺は、何を思っていたんだ?」
痛みの中で。
意識が薄れていく中で。
目の前で何が起きているのか分からない状況の中で。
俺はいったい、何を考えていたのだろう。
「あの時の8」
しかし、もうその答えを知ることはできない。
妻が警察や救急隊員から聞いた話によれば、俺は血だらけではあったものの、簡単な受け答えができる程度の意識は残っていたらしい。
名前などには答えていたようだ。
ただ、妻への連絡先については答えていなかったのだろう。
警察は、俺のスマートフォンの電話帳から家族と思われる連絡先を確認し、妻に電話をかけたという。
その時の俺に、家族のことを考える余裕はあったのだろうか。
それとも、すでに意識は現実から離れ始めていたのだろうか。
「あの時の俺よ、教えてくれ!」9
名前を答えるだけの意識を残し、血だらけになっていた俺。
痛かったのか。
苦しかったのか。
怖かったのか。
そして、そんな状態で何を考えていたのか。
事故によって失われた記憶の一部は、今となってはもう取り戻すことができない。
脳の中に残っているのかもしれない。
けれど、俺自身には、それを引き出すことができない。
ただ、現場で対応してくれた方々から妻が聞いた話には、ひとつ気になることがあった。
俺は、救急車に乗せられることを拒んでいたらしい。
そして、
「家に帰る」
と、何度も繰り返していたという。
救急隊員が俺を搬送しようとしても、起き上がろうとして暴れたらしい。
妻はその時、こんな言葉を聞いたという。
「ご主人は何の仕事をしているんですか? すごい力で起き上がろうとしていました」
その話を聞いて、俺は考える。
痛みがあったはずだ。
意識も薄れていたはずだ。
それなのに、なぜ俺はそこまでして「家に帰る」ことにこだわったのだろう。
家族が待っているから?
妻や子供、ペットのもとへ帰りたかったから?
患者や従業員を抱える仕事への責任があったから?
ただ、「家に帰る」という、いつもの一日の最後の行動を完遂しようとしていたのか?
それとも――
ただ単純に、家に帰ってゆっくりしたかったのか?
今の俺なら、いろいろな答えを想像することができる。
しかし、本当の答えは分からない。
だから、あの時の俺に聞いてみたい。
「お前は、痛みと意識が薄れていく中で、なぜそこまでして家に帰ろうとしたんだ?」
今の俺が想像している答えは、本当にあの時の俺の答えなのか。
あの特異な状況の中で、あの時の俺が感じていたものは何だったのか。
それを確かめることは、もうできない。
答え合わせをすることは、永遠に叶わない。
「あの時の俺よ、教えてくれ!」10
――意識不明の中での出来事――
なんとか救急車に乗せられ、俺は病院へ運ばれていった。
その頃、俺のスマートフォンから家族と思われる連絡先を確認した警察が、妻に電話をかけていた。
なかなか帰ってこない俺を心配していた妻のスマートフォンに、俺の番号から着信が入る。
妻は、俺からの電話だと思って電話に出た。
そこで聞かされたのは、想像もしていなかった言葉だった。
「もしもし、〇〇警察ですが、〇〇さんのご家族ですか?」
突然、俺の番号からかかってきた電話。
しかも、相手は警察を名乗っている。
妻は、何が起きているのか分からず、動揺したという。
そして警察から、
「〇〇さんが事故でケガをされ、〇〇病院に搬送されました。すぐに来てください」
という内容を伝えられた。
妻は、その時のことをあまり思い出したくないようで、詳しいことは今でも多くを語ろうとはしない。
それだけ、突然の出来事だったのだと思う。
「あの時の俺よ、教えてくれ!」11
――意識不明の中での出来事――
俺の番号からかかってきた、警察を名乗る人物からの電話。
最初は、何が起きているのか理解できなかった妻。
しかし、警察から事故の状況を詳しく聞かされ、急いで〇〇病院へ向かうことになった。
家には小さな子供たちやペットもいる。
近くに住む実家に家のことを頼み、妻は病院へ向かった。
そして病院に到着した妻を待っていたのは――
変わり果てた俺の姿だった。
「あの時の俺よ、教えてくれ!」12
――意識不明の中での出来事――
訳も分からないまま病院へ駆けつけた妻。
そこで警察や医師から、事故の状況について説明を受けた。
しかし、どれだけ説明を聞いても、その事実を受け入れることができなかったという。
「事故に遭った」
「病院に運ばれた」
その言葉だけでも十分に現実離れしている。
それなのに、その先にはさらに残酷な現実が待っていた。
妻の目の前には、普段の俺とはまったく違う姿になった俺がいた。
「あの時の俺よ、教えてくれ!」13
――意識不明の中での出来事――
病院に駆けつけ、状況の説明を受けても、現実を飲み込むことができない妻。
そんな妻は、ICUへ案内された。
そこには、事故によって運び込まれた俺がいた。
そして――
妻を待っていたのは、さらに厳しい現実だった。
「あの時の俺よ、教えてくれ!」14
――意識不明の中での出来事――
夜間救急の入口から病院に入った妻。
夜の静かな待合室で、ひとり待っていたという。
しかし、連絡を受けて駆けつけたにもかかわらず、しばらく案内されることはなかった。
不安になった妻は、近くにいた夜間受付の看護師に声をかけた。
「連絡を受けて来たんですけど……」
看護師は事情を確認し、
「確認しますので、少しお待ちください」
と答えた。
そして確認が終わると、
「集中治療室へ行ってください」
そう告げられた。
言われるままに、妻はICUへ向かった。
そこには担当の医師と、事故の対応にあたった警察官がいた。
その場のただならぬ雰囲気に、妻はようやく異変の大きさを感じ始めたという。
病院に来るまでは、俺は大きなケガをしたものの、治療を受けながらそれなりに元気にしている――
妻は、どこかでそう思っていたのだと思う。
しかし、ICUへ案内されたことで、
「もしかして、大変なケガなのではないか」
そんな不安が膨らんでいった。
そしてICUに入った瞬間、その不安はさらに大きくなった。
そこに漂う、ただならぬ空気。
そして、その不安をはるかに超える現実を、担当医師から告げられる。
「ご主人は、大変危険な状態です」
その言葉を聞いた瞬間――
妻の目の前は、真っ暗になった。
「あの時の俺よ、教えてくれ!」15
――意識不明の中での出来事――
ICU。
そこには、身体中にさまざまな機械や管をつながれた俺がいた。
その姿を前にした妻に、治療にあたっていた担当医師が告げる。
「ご主人は、大変危険な状態です」
その言葉は、妻にとってあまりにも突然だった。
目の前が真っ暗になる。
頭の中を、さまざまな思いが駆け巡る。
「どうして?」
「何が起きたの?」
「これからどうなるの?」
ほんの少し前まで、いつものように仕事をしていた俺。
いつものようにバイクに乗り、
「今日は銀行に寄るから、少し早めに帰るよ」
そう言って家を出た俺。
それが、なぜ――。
妻にとって、その光景は現実とは思えないものだった。
まるで夢を見ているようだったという。
「これは夢なんじゃないか」
「夢であってほしい」
そう願ったのかもしれない。
しかし、目の前にいる俺の姿は、夢ではなかった。
身体には無数の管や機械がつながれ、静かに横たわっている。
医師から告げられた言葉も、現実だった。
妻は、その現実を受け入れざるを得なかった。
そして俺は――
その時、意識のない世界の中で、いったい何を見ていたのだろう。
何を感じていたのだろう。
何を思っていたのだろう。
そして、最後まで「家に帰る」と言い続けたあの時の俺は――
本当は、何を求めていたのだろう。
「あの時の俺よ。
教えてくれ。」
一年が経った今も、その答えは返ってこない。
それでも俺は、問い続ける。
あの日の記憶をたどりながら。
帰ってこない答えを探しながら。
「あの時の俺」が残した、わずかな痕跡を拾い集めながら。