合言葉は

「まいにち綾野剛っっ!」

【綾野剛の病】を全力でたのしむ

やちゅはぴですっ照れキラキラ

昨日の記事で
自分の「ブレインフォグ」について
少し触れましたキラキラ

「ブレインフォグ」は
そのまま訳すと「脳の霧」なりますが、
医学用語ではなく、

症状としては
アタマの中に
靄(もや)がかかったような状態を指します。

ブレインフォグ。

コロナ後遺症の症状として
メディアに取り上げられる機会があったので
記憶にある方もいらっしゃるかもしれません。

でも、
人によって感じる「靄(もや)」は
大きく違うように感じます。

ここではわたしが体験した
「ブレインフォグ」について
記録しておこうと考えています照れ



日本で最初に
新型コロナウィルス感染症が確認されたのは
2020年1月。

同じ1月に
上の娘の
「大学入学共通テスト」があったので
感染拡大が強く記憶に残っています。

というのも、
「そのうち収束するだろう」と
やや楽観的に捉えていた感染症は
予測を超えて猛威を振るい、

同年4月の大学入学式は
日本中のどの大学においても、
オンライン実施であったり、
保護者の列席を禁止していたり、
というスタートでした。

当時、
高校生だった真ん中の息子も、
中学生だった下の娘も、
最初は「自宅学習」という名目で
自習が求められましたが
そのうちオンライン授業が始まりました。

春から大学生になった
上の娘の同級生のほとんどが
同様にオンライン講義を実施する中、

上の娘は
実習による単位取得が必須の
管理栄養士国家試験資格を取得するため、

2021年春から都会を通過して
定期的に大学に通うようになりました。

そうして
2021年8月の終わりに
上の娘が新型コロナウイルスに感染。

その日のうちに
「わたしリビング」を拠点に生活していた
真ん中の息子が発症。

翌日には、下の娘も発症し、

違和感はあるものの
症状のなかったわたしも
新型コロナウイルス検査で
感染が確認されました。

(ちなみに、
8人家族とはいえ
高齢の義両親と心疾患を持つ義弟、
精神疾患のため外出困難な夫は
家庭内隔離生活をしてきたことから
感染拡大は防止できました。)

少し前の時期であれば
感染者は全員が入院隔離されたのですが、

この頃には病床不足となり、
重症者のみ入院措置をとり、
あとはホテル療養というスタイルに
なっていました。


しかし、

保健所に連絡を取っても
ホテルの空きもない状況。
(そもそも、電話もつながりにくい)

クスリもなく、
高熱に浮かされる子たちに、
新型コロナウイルスによる
細胞破壊を危惧して、
常にタンパク質多めの食事を用意。

わたしの専門は病理栄養関連。

上のふたりが
ようやくホテルに入れたのは
発症から数日を経過してからでした。

なお、
下の娘は16歳未満だったことから
母である わたしとの同室が叶い、
さらにその2日後から
ホテル療養スタートがしました。

全員が同じホテルでしたが
部屋から一歩も出ることが許されず、
全員がLINE 通話で気を紛らわしたり
困りごとを相談するような状況でした。

幸い
わたしは発熱することもなくて、
下の娘の看病に明け暮れる数日間。

子たち全員が解熱後
規定の日数をカウントして退所が決定。

しかし、退所当日の朝。

わたしは体感的に
「これは、発熱する」と感じられました。

子育て中のインフル看病の際など
発症する前に
「ヤバい」と気づきますよね…

ホテル療養では
医師や看護師と
直接お会いしての診察はなく、
電話による問診のみのため

退所日の朝に
「帰ってはマズい」と伝えても
その時点では
37.0度と規定体温以下で、

「規定の日数を過ぎているので、

もう、感染力はありません」と

言われるばかり。

このような体調の自分が
社会に出ることは、
新型コロナウイルスを
ばら撒くことになると
不安を感じていましたが、

案の定、
帰りのクルマの中で発熱。


一気に 40度を超えました。

けれど
保健所に再度、連絡をしても

「医師から
“感染の可能性ナシ”と記録されています」

との返答で、埒が明かない。

そこで
子たちを保健所へと導いてくださった
かかりつけ医に連絡して事情を伝えると、
ようやく、改めて
ホテル療養に入ることが決まりました。

と言っても
ホテルが空くまでに4日もかかり、
高熱で動くこともままならず、
食事を摂ることもできず過ごした
自宅での
その間の記憶はほとんどありません。

食事を用意できる者もおらず、
かつ、
積極的に食事を摂れる状況でもなく、
水分のみ摂取の状態だったようです。

ホテルに入ってから数日後に
規定の体温(37.5度未満)まで下がり
自宅に戻ることになるのですが、

その後
3ヵ月にわたり
37.5から38.5度程度を維持し、
体力的に動けなくなりました。

それだけの期間を
飢餓状態で過ごしたからか、
食事を摂ることも難しく、
筋肉が落ちた身体を縦にすることも出来ず、
トイレの前に布団を敷いて過ごす日々。

職場に復帰することなど
とうてい無理で、
休職手続きを取りました。

1年4ヵ月も休ませてくださる職場…
ありがとうございます。

発熱が落ち着いて1ヵ月が経過した
2021年の年末頃(4ヵ月後)には
買い物に連れ出してもらえるようには
なったのですが、

途中で倒れて意識が戻らず
救急車で搬送される…なんてこともあり、
普通の生活には程遠い毎日でした。

ここまで、
脳がぼんやりしているのは発熱のせい、
体調のせい、と思い込み、
元気になれば回復するものと捉えて
あまり問題視していなかったのですが、

あるとき
一気に症状が悪化しました。

人の会話の意味が、分からない。

テレビで流れている情報が理解できない。

そして、
書いている文字が理解できない…。

文字を読むことは出来るのですが、
その意味が理解できません。

例えば病院で
問診票を書くように言われたとき。

「氏名」「ふりがな」「生年月日」などの
文字を読むことは出来ます。

だけど、
それが何を意味しているのかが
理解できません。

これまでの人生経験から
「おそらく、ここに、なまえを書く」
と判断することは可能で、

手が記憶している文字を
書くことも可能です。

なので、
名前や生年月日は
「それなりに」書けます。

小学校低学年のような文字になります。

しかし、
この時期に一番困ったのは、
息子の大学と、下の娘の高校の、
入学書類への記入でした。

子どもたちに見てもらい、
書くべき文字のお手本を用意してもらい、
それを見ながら、書く。

そうやって仕上げた
書類の文字のほとんどを、
わたしは理解できませんでした。

このような状況だったため
復職など出来るわけもなく、

日々、
少しでも食べて、少しでも動いて、
筋肉を作ることを目標に生活していました。

その後、
指定難病の発症を確認されるなど
体調に関する
いくつかの出来事に見舞われましたが、

幸いにも
体調に理解ある部署に配属していただき、
復職することができました。

…が…。

実は復帰当初は
まだ脳機能は通常とは言い難く、
けれど
収入がなくなることが恐ろしくて、
だましだまし職務にあたる…
というスタートを切りました。

書類に書いてあることを理解するのに
4~5倍の時間がかかり、
目が見えていないように感じて
集中力も途切れがちでした。

家事をしようにも
嗅覚、聴覚、味覚、触覚…
それらもエラー起こしているので、

特に食事の用意が困難で

調理しても味が分からない…

ニオイも分からないので
「おいしそうなニオイ」でないものも
出してしまう…。

悪化しているのか、
改善しているのかも分からず、
「自分はこれから、どうなるんだろう…」と
とても強い不安の中にいました。

あれから2年。

身体機能は
少しずつのエラーをのこしつつ、
変化を見せています。

例えば、
香水は全て同じニオイがするのですが、
(決して良い香りではない…)

おそらく香水に必ず使われる
安定剤などのニオイではないかと
想像しています。

どこかで嗅がせてもらえないかなぁ…。

でも、
コーヒーやカレーのニオイは
脳で想像しながら嗅ぐトレーニングで
少し感じられるようになりました。

舌は常に微妙に痺れていて、
ときどき「甘み」や「辛み」など
一定の味覚が弱くなることがありますが、
「そういうもの」と楽しむようにしています。

調理に関しては、
30年の経験と、レシピさまさまです。

文章の内容を理解し
文字が書けるようになるためには
子たちが幼いころに
何度も音読した絵本が役立ちました。

ストーリーを覚えているし、
役者の台詞回しで音読していたので
感情も読み取りやすく、

最初は、
まるで文字を覚えたての幼児のように
一文字ずつを
意味を理解しながら
読み進めていました。

こんな日々を過ごして、
ようやく、
自分のブレインフォグについて
「軽くなったな」と実感できるようになり

こうして
日々、文章を綴るブログを
立ち上げることができました。

これらの文章を書く作業は、
ブレインフォグを発症するまでよりも
時間がかかりますが、

文字の内容が
理解できなかった頃と比較すると
「ありがたいなぁ〜」と感謝が溢れます。

世界中の
新型コロナウイルス感染症からの
ブレインフォグに悩まれている方たちが
一日も早く
軽やかになられますように
心よりお祈りしています照れラブラブ