中世以来の黒川城を、若松城に改め

7重の天守に改めたのは、蒲生氏郷で

その後大名に入れ替えが続いた後

徳川家光の庶弟の保科正之が23万石で入り

会津松平家となりました。

 

幕府と会津藩は関係が深かった為、

戊辰戦争では、激戦地になり、籠城戦で城は

破損して明治7年に取り壊されました。

 

              

 

今ある天守は、昭和40年鉄筋コンクリート造りで

外観復元されたもので、郷土博物館として使われています。