西国大名と豊臣家への抑えとして、関ヶ原の合戦後に、

六か月という短期間に天下普請で造られた篠山城は、

豊臣家の消滅後も、代々松平家が入り、最後は青山家が入り

明治を迎えました。

 

この城の外堀の西側には、御徒町があり、

武家屋敷が並んでいました。

 

          

 

茅葺の門の中には、同じく茅葺の母屋が建っていました。