豊臣秀吉が文禄の役の前に築かせた城が、

九州の西の端、松浦半島の北にあります。

 

この城は、名護屋城と言って、建設当時は、

大坂城に次ぐ規模の城で、五重の天守がそびえる

城下町は十万を超える人口でした。

 

太閤が亡くなり、渡海軍は帰国して、廃城となり、

建物は唐津城に移築されました。

 

そのあと島原の乱の後、城は完全に城割され、原野に戻りました。

 

 

大手門跡には、崩れた石垣と、一本の木、

本丸には、「太閤が睨みし海の霞かな」という句碑が

風に吹かれています。