大久保誠一(仮名)さん
人生の航路に大きな影響を与える人に遭遇する機会は3度ある
とよく言われる
私は転地、転職を何度も経験していて
その度に生活が急変しているので何人も人に影響されている
大久保さんとの遭遇は殆ど運命だった
定時制高校の現代詩同好会の先輩の紹介で
得た2度目の勤務先、横浜市庁の臨時職員で
新聞記者クラブの事務員だった
記者クラブは第1、第2とあって
私は地方新聞の記者が在籍する第2の担当だった
地方新聞はいわゆる選挙活動や選挙記事
市内の商店、会社や著名人の提灯記事を書く新聞社だ
クタブには12社が在籍していて
私は彼らの事務の補助、給仕のような職務だった
そこに在籍のY社の社長から
ラジオ関東の編成部に面白い仕事がある
やってみないか との誘いを受けた
記者クラブに留まれば正職員の道が約束されていたのだが
面接を受けたところ合格した
その面接者がY社社長の長男、大久保誠一氏だった
勤務先は横浜市の港の見える丘公園の一角にあったが
ほどなく東銀座7丁目の銀座スタジオビルの東京支社に転属
横浜から有楽町まで通勤
給料も18~19才には破格の高額だった記憶がある
そこで常務取締役支社長の秘書に
常務の主催する「言論人首相高専連盟」の専属事務員に展じることになる
この一連の私の展開には大久保誠一さんも一緒だった
言論、新聞、報道、政治等々に将来を志向することになった
かけがえのない青春の一時期だった