Yさんは、母の様子もよく見ていてくださって、足腰がとてもしっかりしている、
何度も同じ質問はするけれど、あまり認知症というかんじはしない、気にならない、
など言ってくださり、
ゴールデンウィークにみんなで集まるのも、母にとって負担にならないか、注意深く観察してくださっていました。
私にも母の体調面や精神的な状態のことをいろいろ聞いてくださり、
みんなで集まるのは大丈夫そうだ、
今の母には、プラスになるみたいだ、
と安心してくださったようです。
本当に有難いことです。
そんなYさんを見て、私も、ゴールデンウィークの計画に自信を持ちました。
というのは、私が同席すればとても安心なのですが、そうすると母が自分なりに話せることまで私がしゃべってしまいがちです。
なので私は同席しないつもりでいます。
母が話すとなんだかよくわからなかったり、耳が遠いので、私が通訳のように皆さんの話を短くして母の耳元で大きな声で話したりしてしまうし、母もそれを私に求めてきます。
でも私がいないと、皆さんもどうにか母に伝わるよう耳元で何度も話したり、何度も同じ質問をすることに慣れて、受け入れてくださるようです。
なるべく私の力を借りずにコミュニケーションをとって欲しいのです。
Yさんがいらっしゃるなら、私がいなくても母は楽しめると確信しました
で、Yさんに、愚痴混じりの話もしてしまった私ですが、毎日ルーチンの生活は穏やかに過ごせるけれど、49日までのお寺さんとのやり取りがイレギュラーで、母の質問が止まらなかった話をしたら、
「まあ
そこまで気を配れるんですね」
と言っていただけました。
質問責めの不快さが先に立っていましたが、
よく考えるとそうなんですよね。
いろいろ怠りがあってはならない、という気が働くからこその質問なんです。
質問したことや返答をもらったことを覚えていられないからの質問責めなのであって、
私を不快にさせようとしているわけではないのです。
短期記憶がだめだからしょうがないのです。
短期記憶はダメだけど、気遣いはまだできる、ということなんです。
現に、今日も、お茶がなくなっている様子を察するとおかわりを持ってきたり、次にコーヒーを持ってきたりしていました。
日常の不快さの中にも、もっと事の本質を見なきゃいけないなあと思います。
難しいんですけれどね