東京・羽田空港の滑走路で日本航空(JAL)と海上保安庁の航空機同士が衝突、炎上した事故から2日で2カ月を迎えた。海保はこの日、犠牲になった羽田航空基地所属の職員5人の公葬を都内で開き、上司の林博之・羽田航空基地長が弔辞で5人を悼んだ。

 事故当日は、前日に起きた能登半島地震の支援のため、物資を搬送する業務にあたっていた。

 副機長だった田原信幸さん(当時41)は、海保のパイロットとして全国各地の航空基地で勤務。2023年4月に大分県宇佐市の畑に軽飛行機が不時着した際には訓練教官として搭乗しており、「卓越した操縦技術で被害を最小限に食い止めた」とした。23年10月に羽田航空基地に配属されてからは「若手の育成にも力を入れて取り組まれていたところでした」。

 整備士の宇野誠人さん(当時47)は当初から航空整備士への強い希望をもっていたという。事故機となったボンバルディア機については「知見は秀でるものがあり、全国各地の整備士が宇野君を頼りにしておりました」。

 探索レーダー士の帯刀(たてわき)航さん(当時39)は若手に対して穏やかな人柄で丁寧な指導をしていた。灯台の管理や巡視船の通信士としての業務にも従事し、「将来有望な若手職員の一人として活躍を期待される存在でした」。

 通信士の石田貴紀さん(当時27)は、通信士として業務に従事したほか、探索レーダー士の資格取得にも取り組んでいたという。将来は英語力を生かして、「当庁の国際業務、大使館での勤務、国際戦略の企画立案業務に携わりたいという希望をもたれていました」。

 整備員の加藤重亮さん(当時56)は、自衛隊で航空機の整備員として約35年間勤務した後、22年に海保に入庁した。自衛隊での経験を元に、「若い職員に積極的にコミュニケーションを図り、技術支援を行うなど、模範的な人材でした」。

 林基地長は弔辞の結びに、「部下や同僚として同じ時を過ごし、同じ空を飛び、苦楽をともにした仲間である皆様の姿や将来のこと、ましてご家族のご心痛を拝察いたしますとき、これほどつらく悲しいことはありません」「このような事故を二度と繰り返さないよう、私たちは安全な空へ再び飛び立つため全力を尽くすことをお誓い申し上げますとともに、皆様が残された多大なる功績に深く感謝を申し上げます」と述べた。