早稲田松竹 久しぶり~
👆この画を見ただけで
ジャック・ロジエ=Jacques Rozier
ヌーヴェルヴァ―グの先駆け。
その才能をゴダールは絶賛し、トリュフォーは嫉妬したと・・・。
三角関係の映画だけれど、そこはほれ、ヌーヴェルヴァーグ、どろどろしていない。
仲の良いリリアーヌとジュリエットが、数か月後に兵役を迎えるミシェルと出会い、彼に惹かれていく。一方ミシェルは兵役まで、バカンスを過ごすことを考えている。三人が、コルシカ島で過ごしながら色々と・・・。
まず冒頭のシーン、「掴みはOK」で、とても良い。惹かれます。
そして、様々な思いが過るラストも、良かった、ので、冒頭とラストの印象は、後を引きました。
ヌーヴェルヴァーグにありがちな、一見、ロケにも自由さがあり、‘‘遊び感覚に思えるような、あれこれ綴られる経過‘‘が、このラストで、ひとつの物語として完結し、締まって終わる。
頻繁に流れる音楽は、単調さを避け、楽しさを増していたように思う。
タイトルの「アデュー・フィリピーヌ」 フィリピ―ヌとはアーモンドのことなのね・・・私と同様、調べた方の説明がありました。
作品の中で、リリアーヌとジュリエットが、「明日の朝、先に“アデュー・フィリピーヌ”と言った方が、ミシェルを彼氏にできる」という、賭けのような遊び言葉として使われています。
もとは、「ボンジュール・フィリピーヌ(こんにちは、フィリピーヌ)」という遊びだそうで、フィリピーヌとはアーモンドのことで、アーモンドの実をふたつに割り、片割れをふたりで持ち合い、次にふたりが会った時に先に「ボンジュール・フィリピーヌ!」と言った方がプレゼントをもらうという・・・。
「ボンジュール・フィリピーヌ」を『アデュー・フィリピーヌ』としたのでしょう。そのアデューは、ミッシェルとのお別れに。
以下、
興味のない方は要スルーで
👇
参考/WIKIより
仏/映画監督
(1926.11.10~2023.6.2)・・長命ね
IDHEC在学中、ジャン・ルノワールの助監督として映画界に入り、卒業後、1950年代に最初の短編映画を数本撮る。短編ドキュメンタリー「十代の夏」は当時日本で公開された唯一の作品であった。同作に注目したジャンリュック・ゴダールが「勝手にしやがれ」のプロデューサーであるジョルジュ・ド・ボールに紹介し、実現したのが「アデュー・フィリピ―ヌ」である。
参考/早稲田松竹サイトより(詳しく語られ、よくまとまっているので、そのまま貼らせていただきます✒️)
2023年の初夏、ジャック・ロジエ監督がこの世を去った。
世界中でどれだけの人が「アデュー・ロジエ」とつぶやいただろう。
『アデュー・フィリピーヌ』には思い返すだけでとろけてしまいそうなシーンがいくつもある。ヌーヴェルヴァーグの作家たちが好んだ街頭ロケシーン、リリアーヌとジュリエットの美しい横移動ショット、先に目覚めて「アデュー・フィリピーヌ」と叫んだ方が恋人を独り占めできるという遊戯、ジャン・ヴィゴ監督の『ニースについて』を彷彿とさせるお祭り騒ぎの中、コルシカ島に彼女たちが到着するシーン、恋に破れそうになった夜、突如ハチに襲われるピクニック、歌とダンスの上手なイタリア人、ミシェルにやさしくされた夜、(カメラを見つめながら)踊るリリアーヌ、旅先からそのまま戦地へと旅立つミシェルを見送る二人。
それだけでは物語と言えるほどの組織を持ちそうもない瞬間のきらめきがいつしか連なって映画の時間を作り出す。ロジエの映画はいつもそうだ。わたしたち観客は彼の作り出した瞬間瞬間をみつめるしかない。ただそれに身を預けても構わないと思えるのは、私たちが見つめたものをひとつひとつ拾い返してくれるような贅沢な時間との戯れをジャック・ロジエの映画は許してくれるからだと思う。
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おまけ
期間中、毎晩19時50分~22時10分のラスト回に、ベベ(あ~、この呼び方、懐かしいッ若い人は判る? ブリジットバルド―よ)を撮った、ゴダールの傑作メロドラマ「軽蔑」の上映があったのです・・・
この光と影と色と
この構図も
素敵よね
★ポスター★
おわり