24/8/6 | クリスチャンリンゴ事件簿、アッパールーム編のブログ

抑圧の正体

聖書はイエスキリストの身体であり、新約と旧約の物語を通して、あらゆる場面で私たちにその心象風景(神の御心)のイメージを与えてくれている。サムソンは神によって祝福されて誕生したが、置かれ時代はペリシテ人たちの支配下であり、大多数の人々はその教義(三つ巴の宗教戦争)によって、真のメッセージが通じなくされている。一つの価値観(デジタル)によって、覆い尽くされている言語環境は、選ばれたデリタ(時代に台頭してくる独裁者の群れ)に托され、サムソンの力を無効にさせようと企む。

 

デリラは彼に言った「あなたの心は私にはないのに、どうしてお前を愛しているなどと言えるのですか。もう三回もあなたはわたしを侮り、怪力がどこに潜んでいるかを教えてくださらなかった。来る日も来る日も彼女がこう言ってしつこく迫ったので、サムソンはそれに耐えきれず死にそうになり、ついに心の中を一切打ち明けた「私の母の胎内にいたときからナジル人として神にささげられているので、頭にかみそりを当てたことがない。もし髪の毛をそられたら、私の力は抜けて、私は弱くなり、並みの人間のようになってしまう」…列王記16:15~17

 

私たちの信仰は抑圧(サタンの誘惑)を前提にした戦いであり、誘惑の目によってそこらじゅうから監視されている。それゆえ、自分はどこから来て、どこに行くのかをしっかりと意識できない限り、誘惑の行進についていってしまう。デリラの軍門に落ちたサムソンは、神殿の柱に縛りつけられ、イエスの十字架のように、世を破壊させ相殺化させた場面を見せてくれる。

 

それから、サムソンは、建物を支えている真ん中の二本を探りあて、一方に右手を、他方に左手をつけて柱にもたれかかった。そこでサムソンは「私の命はペリシテ人と共に絶えればよい」と言って、力をこめて押した。建物は領主だけでなく、そこにいたすべての民の上に崩れ落ちた。彼がその死をもって殺した者は、生きている間に殺した者より多かった…列王記16:19~20

 

サムソンの内なる叫び「私の命はペリシテ人と共に絶えればよい」という肉なる殲滅を通した、新しいイメージを私たちに示されることになる。それは抑圧への相殺化であり、形と形の相殺化(相対論)の後に〝霊の受肉〟という創作意欲が芽生えることになる。

 

  • 抑圧された欲望が「無意識」とされ、抑圧された欲望を離さず抵抗する者が出てくる。そこで後期のフロイトは、患者の抵抗自体が無意識的なものであることに気づき、無意識のなかに欲望を抑圧するはたらきもあると考えた。そこで提出されたのが、「自我」「エス」「超自我」というモデルである。エスは抑圧された無意識の欲望、超自我は親の命じたルールが身につき無意識化されたもの、自我はエスと超自我の葛藤の調停をはかる。こうして、患者の抵抗は、超自我の命令によるエスの抑圧、自我による調停の失敗として説明された…コトバンク
  • 相対論とは。ある範囲の座標系がすべて物理的に同等であって、これらのどの座標系でも物理法則はまったく同形(記号)でなければならないという要請を相対性原理という。相対性原理の要請を満たす物理理論を相対性理論という。ニュートン力学ガリレイの相対性原理を満たし、すべての慣性系を同等とみなす相対性理論である。しかし,これを除外して,普通は相対性理論といえば A.アインシュタインが提唱した特殊相対性理論一般相対性理論統一場理論(時空間の運動)をさす…コトバンク

24/8/2ブログ参照