呼吸の源
吸って吐く。心臓の鼓動を通して脈々と宇宙と交信している不思議な生命の鼓動。多くの人々は当たり前すぎてこの非言語を通過していく。私たちは信仰を通して、基幹である呼吸の言語化という聖書全体をイメージしていくことができる。それは言語化に対するアンチテーゼであり、彼らがこだわる形に対する固定に対して、自然界では固定された形は死を意味することになる。それゆえ、情報化という現象は、既成事実という固定の言語(デジタル)と、運動を通して変幻自在に機能していく個体(動植物の有機的な環境世界、アナログ)との〝差異〟というもを問題にしていくことになる。
彼らは神の律法の書を翻訳し、意味を明らかにしながら、読み上げたので、人々は朗読を理解した。総督ネヘミヤを、祭司であり書記官であるエズラは、律法の説明に当たったレビ人と共に、民全体に言った「今日は、あなたがたの神、主に、ささげられた聖なる日だ。嘆いたり、泣いたりしてはならない」民は皆、律法の言葉を聞いて泣いた…ネヘミヤ8:8~9
俗界とは格差を通した言葉(神の代理)を用いたネヘミヤとエズラによって管理されていく民であり、民(労働力)を通して、人工的な国家を建設していく。それに対して信仰の神とは、、二つの間の呼吸であり、支配する側もされる側も、神によって両者の役割という自然界の掟のような摂理というものを解釈していくことになる。それにより、人工的な国家の建設という文明と、自然界を通した情感という呼吸が一つのサイクルとして機能していくことになる。
彼は更に言った「行って、良い肉を食べ、甘い飲み物を飲みなさい。その備えのない者は、その分け与えてやりなさい。今日は、我らの主にささげられた聖なる日だ。悲しんではならない。主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である」…ネヘミヤ8:10
俗なる日(日々の労働)と聖なる日(休養)との間に、信仰のイメージ(神の計画)というものを見い出すのであり、私たちは信仰を通して、二つの関係性を識別していかなければならない。見える世界(二つの点)に、見えない世界(隠喩)に自らの呼吸を見出すことになる。
隠喩への動機
君は秋の木陰が好き、なぜってすべてがなかば死んでいる。風はまるで足をひきずるように葉陰を抜け、そして言葉が意味もなく繰り返される。同じように、君は春にしあわせだった。四半分の物の半分の色で、ちょっぴり明るくなった空、消えてゆく雲、たった一羽の鳥、ぼんやりした月、ぼんやりした月が照らすぼんやりした世界。表現し尽くすことなどあり得ない物の世界。そこで君自身は全き君自身であったことなどない。そうなれたくもないし、そうあるべきではない。
変化に浮き立つ気分がほしい。隠喩への動機が
真昼の重みにたじろぐから、存在のイロハに、はつらつとした健康な気性、赤と青のハンマー、強烈な音、暗示に逆らう鋼鉄、鋭い閃光、生命の、傲慢な、破壊的で、支配的な何か
…ウォーレス・スティブンス
24/7/16ブログ参照