24/7/2 | クリスチャンリンゴ事件簿、アッパールーム編のブログ

悔い改める

幼子は育児放棄されると、自らの生きる意味が失わわれ、精神的な絶望(自分を囲う言語群)を通して体力も失われていく。世の言葉を知らない彼は、自らの生きたいという願望を、泣き、わめくことで人に訴えていく。それらすべてを無視されることにより、精神的な死(絶望)を通して、相手(マインドコントロール)の言いなりに加工(ロボット)されていくことになる。今の私は、デジタル環境に自らの周辺が囲われて、身動きができない、私の抵抗は毎日のブログであり、彼らの意識は自然を消した、人工の鏡(スマホ)の中であり、自分と相手はデジタルという鏡(クローズドループオートメーション)に写されている共同体(ネットワーク)ということになる。私は、そのような組織から逸脱した個性(迷える小羊)であり、肉の価値を放棄して、神からのメッセージである自然現象からのロゴスに悔い改める生き方を模索していく。

 

徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。するとファリサイ派の人々や律法学者たちは「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言い出した。そこで、イエスは次のたとえを話された

…ルカ15:1~3

 

時代の価値を自らの衣服にして自らの生き方にしているファリサイ派の人々や律法学者の見方をしているのが相互監視の視線であり、それらは私を囲うデジタル表示であり、既成事実という知識の集積物ということになる。それは都市のネオンのように煌びやかだが、すべてが暗闇から発生される誘惑のための方便ということになる。

 

あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に遺して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか…ルカ5:4

 

先生(百人の生徒)が一人一人の生徒の個性を見るより、百人を自らの権限を利用して、制度の言葉で一つ価値に覆い尽くす方が安易であり、多勢のいじめっ子の意見を聞き、一人のいじめられっ子を無視していくのに似ている。無視していく先生は社会的な正当性を通して、何もなかったように、見失った小羊(真っ白い雪に上の足跡)を無視していく。

 

そして見つけ出すまで捜し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んで羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々とを集めて「見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください」と言うであろう…ルカ15:5~6

 

北海道の女子中学生が雪の降る公園で自殺した。一年が過ぎ、やっと教育委員会が自殺はいじめによる原因である認めた。私にとって世からの抑圧を通して、それを跳ね返すパワー(ファイト)を神から与えられているという意味(悔い改め)を、日々のブログにしていく

 

言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔改める必要のない九十九匹の正しい人(世の制度に依存)についてよりも大きな喜びが天にある…ルカ15:7

 

  • エロスとタナトスは、その肉体との関連により人間の本性に内在する抑圧された力の普遍的特徴を持つものとして基本的に仮定されている。この二つの本能は、抑圧されているために普通は認識しえないものでもあるにもかかわらず、人間の文化を創造するエネルギーであり、これらの存在を認めることは人間の文化の再評価ともなる。人間の文化はその時、再び人間の肉体と結ばれることになろう…フロイト

24/6/30ブログ参照