24/5/19 | クリスチャンリンゴ事件簿、アッパールーム編のブログ

霊の受肉

我々の肉体は世に記号化としての知識()に変換させられ、生命が貨幣に変換されたように、物の世界である出来事と物事への意味を自らの内なる野心と欲望への希求へと世に教育されれていく。それが現象(メディアメッセージ)であり、その世界の成功者てある有識者の言動に、多勢の人々は依存し、その言動(生活メッセージ)に一喜一憂している。それは金持ちから貧乏人に一方的に流れる水流(情報)のように、格差社会として常識(既成事実)を形成していく。水の流れに逆らうとは、既成事実(彼らがつくっている環境)の否定していく意味となる。それゆえ、隠された聖霊は〝うめき〟という表現によって既成事実の重荷を指し示していく。

 

 

同様に〝霊〟も弱い私たちを助けけてくださいます。私たちはどう祈るべきかを知りませんが〝霊〟が言い表せないうめきをもって執り成してくださるからです…ロマ8:26

 

既成事実の重荷という世の現象に対して、擁護者という別人格(肉体という価値を消した空気感)を、信仰によって与えらるというイメージがペンテコステであり、重荷という出来事と物事の所有に対する意味を問うことになる。それは既成事実という思考停止の日々に対する、今日を生きている意味という思考空間ということになる。

 

五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話された…使徒言行録2:1~4

 

時代の言語に覆い尽くされているという自覚が信仰の原点であり、時代というネットワーク環境である線的表現から、信仰とは句読点(互いの間)の表現であり、相手の真意という相手に哲学(生きている意味)がなければ、私たちの言葉は現象(既成事実)によって通過さていくという意味となる。それは相対論(時空間)であり、句読点(自分)と句読点(相手)の間(現象)に対する自らの見解(霊の受肉)という思考(命の言葉)を相手に示していく。

 

  • 芸術(アート感覚)の基礎は情動的な把握、目に見える現象の背後に潜む「未知」への感覚、光の洞察と宇宙的気分を、目に見えるか聴くことのできる形式に再構成することである。事物と現象が魂となって顕現する感覚(自分と相手の共通感覚)である。完全な宗教はその構造に、宗教、芸術、哲学、科学を統合する。これは完全な芸術にもあたはまる。それに対し完全な科学(出来事と物事の整合性)あるいは完全な哲学(生き方)は、宗教と芸術を内包(心象)する。科学と対立する宗教、宗教と対立する科学、これはひとしく虚偽である…ウスペンスキー

24/5/16ブログ参照