24/5/17 | クリスチャンリンゴ事件簿、アッパールーム編のブログ

重荷と空気感

既成事実を通した日常のルーテンによって日々を過ごしている従来の思考習慣によって、我々は新たな思考を受け入れることがてない。自らの内にそのようなシステムを通して、外の出来事と物事に対処していることになる。それは時代からの抑圧という習慣に時代の知識が自らの内に浸透し、新しい知識を通して抑圧の正体を暴くという発想に対して躊躇してしまう。従来のキリスト教も、時代の知識を用いた専門知識であり、キリストが指し示す本来の抑圧の解放というものに対して拒否反応を起こしてしまう。

 

これらのことを話したのは、あなたがたをつままずかせないためである。人々はあなたがたを会堂から追放するだろう。しかも、あなたかたを殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考える時が来る…ヨハネ16:1~2

 

このイエスの比喩を通した抑圧からの解放というイメージは、十字架の重荷の意味を伝えているのであり、イエスと敵対しているファリサイ派、律法学者の言動の意味を語っている。重荷とは神の御心から来るのではなく、この世の価値(聖書の文字を字義通り)を通した信仰であると語っている。イエスが示す聖書との関わりは、世の言語というヨコ糸の言葉ではなく、聖霊という空気感を通した、それぞれの肉体(文字)を透過していく神の御心の意味ということにになる。イエスとは世の言葉ではなく、肉体であり、弟子たちと共に過ごした日々から、天に帰還するイエスを私たちはイメージしなければならない。

 

初めからこれらのことを言わなかったのは、私があなたが゛たと一緒にいたからである今、私は、私をお遣わしになった方のもとに行こうとしているが、あなたがたはだれも「どこへ行くのか」と尋ねない…ヨハネ16:4~5

 

私たちは聖霊によらなければ、真のイエスの御心を知ることがてきないということであり、イエスの外観(世との関係性)と私たちの外観によって関係しているに過すぎないことになる。それは世から重荷を課せられる日々であり、私たちは聖霊によって、自らの重荷(日常生活)の正体と戦う日々が信仰の意味となさていく。

 

  • 躓きにおいてもまた同じような転換が見られる。すなわち、「自分の罪に絶望する」という段階から「罪の赦しについて絶望する」という段階を経て「キリストを否定する」という段階へ転換するのである。これは、聖霊を汚す罪だとキルケゴールは言う。そしてこの段階においては、情状酌量「同時」という語の第一の定義は、日常生活で用いられているものに、いっそう近いように思われる。というのは、二つの事象が同時かどうかという質問は、日常生活では基準系には関係ない。しかし、相対論的な定義では、どちらでも、この語は明確に定義されているが、その明確さということが日常生活の言葉には欠けている。相対性理論によって明るみに出された空間と時間の構造は、物理学のいろんな部門に多くの影響を与えた。運動する物体の電気力学は、相対性の原理から直ちに導くことができる…ハイゼンベルグ