24/4/17 | クリスチャンリンゴ事件簿、アッパールーム編のブログ

舟と錨の関係

信仰とは「方舟」にたとえられる。それは我が内なる人生行路であり、それは自らの方向性であり、浮遊している我が身という霊的存在を通して語られていく。それは世間という荒波を乗り越えていく個性という小さな舟であり、情報化という他者性によって混沌(群集心理)としている言語の海に自分を客観的に確かめるということになる。それゆえ、信仰を通した生き方は、個性を支える精神作用であり、舟(不安定な精神状態)を支える錨(神の御心)という中心によって、日々の航路の旅が右往左往しながらも続けられる。

 

私たちの持っているこの希望は、魂にとって頼りになる安定した錨のようなものであり、また、至聖所の垂れ幕の側に入って行くものなのです…ヘブライ6:19

 

多くの人々が固定した安定を情報化のなかで求めるが、それは社会的な権利の所有という意味であり、権利を買うことで、社会から仮設の住まいを提供されることになる。それは地図化(制度)であり、一つ一つの家に一つ一つの権利が保証される制度(法的保証)によって、時代という固定化(言語の海)は成り立っている。それに対して信仰とは「方舟」という反転した生き方(不安定、今日と明日との違いを日々のなかに実感)を意味する。

 

神は私たちの避けどころ、私たちの砦、苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。私は決して恐れない。地が姿を変え、山々が揺らいで海の中に移るとも、海の水が騒ぎ、沸き返り、その高ぶるさまに山々が震えるとも…詩編46:2~4

 

時代の騒音(メディアメッセージ)が日々のニュースで沸き返る様子をみながら、私たちは安定を消しているいるので、恐れを相殺(出来事と物事の奪い合い)する世界を見ることができる。それはゼロという意味てあり、言語を消した動植物と一緒に、生命維持の方法を神によって与えられているという中心()を信じて、私の心の内に悩む心(至聖所)を清掃していく日々ということになる。それは何もないから何でもあるというイメージの世界で時を過ごすことになる。

 

主の成し遂げられることを仰ぎ見よう。主はこの地を圧倒される。地の果てまで、戦いを断ち、弓を砕き槍を折り、盾を焼き払われる「力を捨てよ、知れ、私は神。国々に崇めらられ、この地で崇められる」…詩編36:9~11

 

私たちの精神は抽象的なイメージによって、自らの方舟(人格形成)に乗船していく。その外は「異常な」であり、あるいは「変則的」なものてあると語られている。

 

  • 我々の思考の論理が「同族」と「異属」とを区別する性質のものだとすれば、我々の範疇を混乱に陥らせることなく「異属」とのギャップを埋め、社会的、性的関係を確立するためにはどうすれば可能てあろうか。こうゆうわけで、神学は多種多様であるにはかかわらず、神話のこの局面は不変である。あらゆる神話体系のなかに、我々は二項区分の果てしない連鎖を発見する。たとえば、人/超人、死/不死、合法/非合法、雄/雌、善悪など。そしてこのように区分された一対の範疇の「調停役」がその後にあらわれるのである。「調停役」は第三の範疇(中間領域)を導入することによって実現され、それは通常の合理的範疇から見て「異常な」、あるいは「変則的」なものである。その結果、神話にはとてつもない怪物や神々の化身、処女なる母がたくさん登場するのである。この中間領域な異常であり、非、自然であり、神聖である…エドマンドリーチ

24/4/11ブログ参照