24/4/13 | クリスチャンリンゴ事件簿、アッパールーム編のブログ

裁く言葉

多くの人々は自分というものを消して、外に自分(群衆)を置くことで他者に責められないことを知っている。個の自分の不在を通して、言いたい放題の罵詈雑言が可能であり、その言葉の責任は群衆(鏡の世界)たちが勝手に評価してくれるということになる。私のブログはその心の様子(相手の忖度)を見抜いて、相手に通過されることによって、相手(社会の動向、メディアメッセージ)というものを実感していく。そして、イエスは互いの間(沈黙)を通して、群衆(自分を消した人々)と個人(姦通の女)を分けることになる。

 

朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆は皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。そこへ、律法学者はファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、イエスに言った「先生、この女は姦通しているときに捕まりました。こうゆう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中て命じてします。ところで、あなたはどうお考えになりますか」…ヨハネ8:2~5

 

世の有識者の言葉は管理と称して善悪を裁く権利を与えられている。それが社会秩序を守る自分たちの役割(モーセの立場)と主張する。それに従う群衆が私たちの住む世界であり、そのなかで、個の主張というものは無効ということを、私のブログを通過していく人々の心の姿ということを告げ知らされる。

 

イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何かを書き始められた。しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた「あなたがたの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。これを聞いていた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエス一人と、真中にいた女が残った。イエスは身を起こして言われた「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか、だれもあなたを罪に定めなかったのか」女が「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた「私もあなたを罪に定めない」行きなさい、これからは、もう罪を犯してはならない」…ヨハネ8:6~11

 

このエピソードはアート感覚とは何かというものを示唆してくれる。互いの間の沈黙(心象世界を描くアーチスト)を描くのであり、私の文章を通過していく人々の個性の不在を描いていく。聖俗の分離という感覚が私たちが生きている意味であり、俗界の論理(デジタル環境)という言語の海に対して、中間領域という方舟(天と地の間)を意味する。

 

  • 境界状態(liminality)とよべるような中間地帯では、人々はそれまでの社会上の地位および位置からはずれて、まったく異なる存在になってしまうことがある。秩序化がある程度進んだ社会なら、秩序からはずれた存在の持つ危険性が承知され、それはタブー(宗教、裁く言葉)が異なる存在となった人々を規制したり忌避したりすることに示される。つまり地位変更の局面では、それまでと比べて加入者に対する社会からの構造的な規制は弱まるが、その代わりにタブー(組織を規制する独自の宗教的な教義)が適用されて彼らの行動が規制されるようになる…ヴィクター・ターナー
  • 写楽の「引き裂かれた自己」は、アトムのストイシズムやトラウマとはまるで異質な、痛快なまでのダイナイズムを持つ。しかもそれを媒介しているのは、たった一枚(正確には二枚)のバンソソウコウだけなのだ。それだけを明快な境界にしながら、写楽は二つのキャラクターは巨大な振幅で互換する。自己矛盾の振幅があまりにも大きく極端であるため、写楽自身はその二つの人格の双方に、なんの責任も持たずにすむまだ。荒唐無稽でデタラメな機械を造るときも、地面に複雑な設計図を書いたりもっともらしい計算をしなければ気がすまなかった写楽保助とは、まさに手塚自身の姿にほかならない…「すべて手塚治虫、三つ目が通る」より

24/4/9ブログ参照