24/3/17 | クリスチャンリンゴ事件簿、アッパールーム編のブログ

ロゴスの力

世の有識者たちに、デタラメなイメージをならべてブログにしているとバカにされることを求めて今日もこのように書いている。私にとって聖書とは世(既成事実)を通した学問(知識)ではなく、学ぶという世からの操作(先生と生徒)ではなく、互いの間の問題(テーゼ、心の奥底あるグロテスクな感覚、オンザターニングウェイ)を定めて、それぞれの異なる見解を尊重するという〝差異〟の世界であり、学校のような一方的な教義によるキリスト教会(聖職者、学問という既成事実)から離れ、世の混沌のなかで、自らのロゴスを探す旅路を意味する。それはヨコ糸(組織化)という世間体(群衆の集合体)を通した地図化された迷路(それぞれの勝手な主張)に対する、自分の道(我が身)を形成する生き方ということになる。イエスは、ヨコ糸を消して、私たちはタテ糸の重要性を、聖句を通して今の私たちに(イエスと手を結ぶ幼子のイメージ)を与えてくれている

 

見よ、「私はあなたより先に使者を遣わし、あなたの前に道を準備させよう」と書いてあるのは、この人のことてある。およそ、女から生まれた者のうちで、ヨハネより偉大な者はいない。しかし、神の国では最も小さな者でも、彼より偉大である…ルカ17:27

 

信仰を持つと自負する私たちは、世の知識を自らに取り込むという時代に染められる生き方ではなく、我が身(神→聖霊→個の存在)というタテ糸が大切であり、そのイメージとしてヨハネ(この世の女から生まれた)とイエス(最も小さい者)という、世からはゼロ(心象に宿される自尊心)のような価値を通して、私たちの精神作用という白紙の紙の上に描く自らの人生観(アート感覚)を与えられている。

 

では、今の時代の人たちは何とたとえたらよいか。彼らは何に似ているのか。広場に座って、互いに呼びかけ、こう言っている子供たちに似ている「笛を吹いているにのに、踊ってくれなかった。葬式の歌をうたったのに、泣いてくれなかった」洗礼者ヨハネが来て、パンも食べずぶどう酒も飲まずにいると、あなたがたは「あれは悪霊に取りつかれている」と言い。人の子が飲み食いすると「見ろ、大食漢で大酒のみだ。徴税人や罪人の仲間だ」と言う。しかし、知恵の正しさは、それに従うすべての人によって証明される…ルカ7:31~35

 

外の視線(人を裁く)によって右往左往(世に教育された善悪を前提に人を中傷する)することなく、彼らとは区別された我が身というものを維持して、心ある人と心ない人の識別を通して、私は心ある人を求めて生きている。心とは空間であり、それは外(言語の海)という出来事と物事が混在し密集したネットワークのすき間ということになる。それを内(心象)としたとき、心象を通した時間(存在)として外に意識と区別されることになる。存在を共有する人との共通感覚を求め合うことになる。心とは真空であり、たとえば、ロゴス()の大谷翔平(夢の実現)と、ロゴスの消された闇の大谷翔平(夢に絶望)が存在する。

 

  • 共通感覚とは、他のすべての人々のことを顧慮し、他者の立場に自己を置くことのできる能力である…エマニエル・カント
  • すべてがすべてのなかに、ひとりひとりがすべての人のなかに、すべての人がひとりひとりのなかに、すべての存在がそれぞれの存在のなかに、それぞれの存在がすべての存在のなかに、すべてがそれぞれのなかに、それぞれがすべてのなかに、すべての区別は心である。心によってであり、心のなかにあり、心の一部である。区別がなけれは、区別する心もない…RDレイン
  • ロゴスとは光である。そして人間の心の中に持っていると思われる嫉妬心や怨念などの汚い根性は闇である。闇というのは真空(空間)と同じくそれ自体は存在ではない。光が欠如しているか、もしくは不足している状態だ。従ってどんな悪人と言われる人でも、それは光に恵まれなかっただけのこと、その人を愛と信仰を浴びせ、理を以って説く、つまり、ロゴスを与えれば人間本来の姿、つまり真の人間になっていくのだ…会田雄次

24/3/9ブログ参照