24/2/23 | クリスチャンリンゴ事件簿、アッパールーム編のブログ

あらゆる道か拓かれる

人生には絶望を通して、未知の希望という自らの知らない世界が開かれていく。それは自分(過去)ではなく、状況(外の出来事と物事)に対する対処への可能性であり、自分(運命)ではなく、神から与えられている自分(宿命)に気づき、その自分に可能性を賭けるとき、人生とは一本の道(自分が描く夢)ではなく、多岐にわたって切り拓くという自らの内に隠された能力が発揮されていくことになる。好奇心とは広範囲に広がる感覚の波紋であり、外に対する好奇心は自らの肉体(感受性)に反応する感覚言語を育てていくことがてきる。

 

私たちの主イエスキリストの父である神。慈愛に満ちた父、慰めを豊かにしてくださる神をほめたたえられますように。神はあらゆる苦難に際して、私たちを慰めてくださるので、私たちも神からいただく慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができるのです…第二コリント1:3~4

 

人生とは〝一寸先は闇〟であり、そのための光(永遠の命という考え方)とは自らの内なる信仰ということになる。それは自分ではなく、自分を支えてくれる何かであり、それに全幅の信頼を寄せることで、目の前にある困難に対処できる能力も切り拓かれていく。それは岩をも砕くという〝奇跡〟が起こることもある。まず、過去(知っている世界)を消し、可能性(知らない世界)にチャレンジするための全身全霊を傾ければ、突き進むたびに新しい知識に出遭えることになる。信仰とは影(自らの過去)のない光であり、私たちはイエスの十字架の後(与えられた聖霊)を歩むことで、自らの影(十字架)も消されている

 

キリストの苦しみが満ちあふれて私たちにも及んでいるのと同じように、私たちの受ける慰めもキリストによって満ちあふれているからです。私たちが悩み苦しむとき、それはあなたがたの慰めと救いになります。また、私たちの慰められるとき、それはあなたがたの慰めになります。あなたがたは私たちの苦しみと同じ苦しみに耐えることができるからです…第二コリント1:5~6

 

私たちの信仰とは霊の受肉という可能性の価値であり、発信元が霊(インスピレーション)であり、世から消されているロゴスの価値(アート感覚)ということになる。アートとは心に伝えるための霊(共通感覚)の光線(カンデン)であり、相手に慰めを与えるメッセージということになる

 

あなたがたについて私たちが抱いている希望はゆるぎません。なぜなら、あなたがたの苦しみを共にしてくれるように、慰めも共にしていると、私たちは知っているからてす…第二コリント1:7

 

信仰とは生きる気力の精神的な結晶作用(アート感覚)であり、気力が萎えるような十字架を無視した屁理屈の羅列のような説教(一人の教祖による洗脳行為)ではない。まず、しっかりと自らの内なる既成事実()を消さなければ、天と地の間の宙吊り観(響き合う境界線)を生き抜く意味など与えられない。

  • 共通感覚とは、他のすべての人々を顧慮し、他者の立場(相手の忖度、表層の深層は皮膚というメビウスの環)に自己を置く能力である…カント
  • 我々を傷つけ、せき立てる、敵意に満ちた得体のしれぬ日常生活(言語の海)から、読書のおかげでしばしば逃避することができるのだから、読書は一種の浄めの儀式、多くの場合一連のささやかな慣習的手段の手続きによって補強された浄めの儀式だということになります。このことから「白色で覆ってしまう衣」とでも呼びうるものが、我々の社会における読書という名の儀式のなが果たす役割も明らかになります。読書というページをよぎっていく動きによって、いわば白さの滲み込んだもの、洗礼を施されたもののようにして、いまの世界の厭う気持、世界を変革することの困難を前に、失望落胆があまりに大きくなってしまうため、読書はむしろ好んで白さの宙吊りのうちにとどまって、そこにようやく安らぎを見い出すこともある。そうなると、書物のなの文字というこれらの記号のおかげで姿をあらわすものは、もはや白い光を氾濫させるためのきっかけとみなされるでしょう…Mビュトール

24/2/21ブログ参照