24/2/11 | クリスチャンリンゴ事件簿、アッパールーム編のブログ

命ずるがままに

「命令されるがままに」という表現は、外による客観世界を示されるが、「命ずるがままに」というニュアンスは、主観を通した外からの抵抗をイメージできる。私にとって神の眼差しは抵抗を通した自らの見方の確保への保証であり、心のイメージを優先させる個人の造形を表現できることになる。自らの意識を外に向け、人のために自分が動くためには、外(既成事実という岩盤)を壊しながら自分が突き進むという〝トンネルの掘削工事〟という思考法を用いることになる。そこで問題なのは、壊した外の言語群への問題であり、雑多な出来事と物事の影絵というデジタル映像の消去が必要であり、相手の影絵に〝気づかせる〟という表現法か必要ということになる。

 

マルタは、いろいろなもてなしのためにせわしなく立ち働いていたが、そばに近寄って来て言った「主よ、私の姉妹は私だけにもてなしをさせていますが、何ともお思いませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください」主はお答えになった「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことは一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」…ルカ10:40~42

 

影絵とは、世の雑多な出来事と物事に気を奪われていく意味(マルタの日常)であり、イエスは掘削工事をするために来られたという意味を伝えている。それゆえダビデは、世(神を知らぬ心の人は言う)に対して、絶望の詩を残している。

 

神を知らぬ者の心は言う「神などない」と。人々は腐敗している。忌むべき行いをする。善を行なう者はいない。主は天から見渡し、探される。目覚めた人、神を求める人はいないか、と。だれもが背き去った。皆ともに、汚れている。善を行なう者はいない。ひとりもいない…詩編14:1~3

 

イエスとマリアの姿は、語る側と聞く側が一つの結晶化された造形(詩編という作品)であるということであり、世の言葉との〝差異〟というパラレルな世界を指し示しているということであり、世(一人の意識の号令に多くの人々が命令される)という集団化(行進のような文章)と、聖(語る言葉に耳を傾ける)との違いを指し示す。その映像は、世(饒舌)に対して、聖(沈黙、カタルシスというモグラの心象、安部公房が方舟さくら丸にモグラという名がでてくる。また、天空の城ラピタの地下世界を冒険する人)ということになる。沈黙には外を遮断して自らの思考を通した自分なりの生き方が模索することになるが、饒舌にはパイ(時代の価値、マネー、マネー、マネー)の奪い合いの思考(マキュヴェリズム)によって損得勘定だけの思考が付和雷同(メディアメッセージ)として働いている

  • 近世フランス詩学においては、アリストテレスのカタルシス論は悲劇論の中核をなすものとして理解され、カタルシスは、観者の魂に「怖れと憐れみ」によって浄化を起こすものと理解された。精神科医のジークムント・フロイトがこの語を採用したことから、カタルシスは代償行為によって得られる満足を指す心理学用語としても用いられるようになった。フロイトはヒステリー治療において催眠療法と「悲惨な話を聞いて泣く行為」を併用し、その除反応を「カタルシス」と呼び、以降精神医学界では一般に精神療法用語として定着する
  • マキャヴェリズム(: Machiavellianism/マキャベリアニズム)は、ルネサンス期の1513-14年に『君主論』を書いたマキャヴェッリに由来する言葉で、目的のためには手段(ロシア、イスラエル)を選ばない、目的は手段を正当化するといった意味で使われる。その一方、マキャヴェッリの言葉を断片的に捉えて解釈し、あるいは都合のよいように解釈した結果だと主張する者もいる。たとえば、「国家が危機に陥った場合、政治家は(国家存続の)目的のために有効ならば、手段を選ぶべきではない」という言葉を、ただ単に「目的のためなら手段を選ばなくてもよい」と解釈する考え方。これはマキャヴェッリの思想とは異なっているが、長い間誤解され、批判され続けた。また、このマキャヴェリズムから派生して生まれた、権謀術数主義者(目的達成のためには手段を選ばない人)を指す語を「マキャヴェリスト」という。しかし英語ではこれに当たる語は Machiavellianであり、マキャヴェリストは和製英語とみられる…ウィキペディア

24/2/5ブログ参照