24/2/9 | クリスチャンリンゴ事件簿、アッパールーム編のブログ

自己犠牲

私にとって信仰は自らの人生ではなく、愛(共通感覚)を通した人生観を意味する。互いの間に愛を作っていく。それは自らの夢の造形であり、世(俗界)と区別された聖(パラレル)という意味となる。それは中心(我が身)と周辺(世の現象)であり、そこに自らの夢()を発見する旅路であり、世と並行された出来事と物事(物の世界)が展開されてる。世の雑多な混乱された物の世界から、自らの意味(精神作用)を聖俗の間(パラレルワールド)に造形していくことの謂いとなる。世は生に特化し、死を消した世界観であるとしたら、私たちは死(透明感)を通した夢(ワンダーランド)を前提にした聖域をイメージしていく。死(ゼロ)を通した夢(再生)という、世の論理から逸脱したパラレルワールド(静かに営まれている宇宙の星の運行)を意味する。

 

それから、イエスは弟子たちに言われた「だから、言っておく。命のことで何を食べようか。体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は多へ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか…ルカ12:22~23

 

命と体という一つの世界観を自らの内に生成するということが私にとっての信仰であり、私のイメージでは外(食べ物、着る者)への意識は、死(雑多に混乱した宇宙塵)を通して示されることになる。世は貨幣に変換された私たちの命(知識の体系)であり、信仰とは真の体てあるという再認識(主観の造形)であり、世の大多数の人々が信奉しているデジタルが権利を持った世界観に対して、死という認識以外に生きる術がないという絶望を前提に生きることになる。絶望とはゼロであり、決して人生を諦めたわけではない。逆に、ゼロ(白紙)だからこそ、すべてが可能性(結び合わせるパターンという私のブログ)に満ちている。

 

今日、野にあって、明日は炉に投げ込まれる草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたはなおさらのことである。信仰の薄い者たちよ。あなたがたも何を食べような、何を飲もうかと考えてはならない。また、思い悩むな…ルカ12:28~29

 

自己犠牲の精神(死の世界)には思い悩むという余計な他者性が消されている。相手が攻めて来るという一方的な加害の言葉(カイン)に対して、私(沈黙)は心のなかでゼロを掛ければすべてしご破算(アベル)になるという数学の定理にそって生きていく。さあ、ゲームが開始される。だが、私の周りにはだもいない。まっ!いいか…!!

 

  • パラレルワールド(Parallel universe, Parallel world)とは、ある世界(時空)から分岐し、それに並行して存在する別の世界(時空)を指す。並行世界、並行宇宙、並行時空とも言われている。  そして、「異世界(異界)」、「魔界」、「四次元世界」などとは違い、パラレルワールドは我々の宇宙と同一の次元を持つSFの世界の中だけに存在するのではなく、理論物理学の世界でもその存在の可能性について語られている…ウィキペディア
  • 生活の作品化を作家活動と信じ込んでいる人がいる。なにも、同人雑誌などのこもっている文学老青年だけとはかぎらない。いわゆる私小説作家と呼ばれる傾向の人たちはおおむねこの信念を自己の支えにしている。またその逆の立場である社会派の連中にしても、その点において大同小異である。彼らはその主義主張から、作家もまた、現実社会に参加していなければならないという信念を持っている。ところで、この生活主義に対置すべきものを一般に芸術至上主義と呼ぶらしい…安部公房

24/2/4ブログ参照