24/1/30 | クリスチャンリンゴ事件簿、アッパールーム編のブログ

生き抜くと決めたとき

世に属しているということは、自分の命(責任)を考えなくて済むという意味であり、日常のスケジュール(昨日の続きは今日、今日の続きは明日)に従がい移動(二足歩行は自らの選択権)させられ、荷物(時代に操作)という物扱いにされ、相手に遠隔操作された手(ロボットアーム)という言語(コンピュータ)によって、肉体の人工化に同化された環境(メディアメッセージ)にされることになる。私は自らの〝気づき〟という神からのメッセージを耳にする。それによって荷物から自分の足で、ロボットアームから自分の手を取り戻すことができた。その実感(差異)を通して、世から孤立した場から発信しているメッセージということになる。それは〝点〟という存在であり、新しい言葉によって、自らが生きていることを表現(空間)に命(時間という我が身)を通して透明なビーム(鳥の翼という手の代理の落書き)を相手の心()に注いでいる。

 

義のために迫害される人々は幸いである。私のためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである…マタイ5:10

 

操作(命を消す)される荷物から、生き抜くという選択(生命力)を通して語っているのであり、その時、肉体(荷物)は世から消され、感覚器官という内なる発信のために心の倉から生活(荷物)を消去(衣食住)をすることになる。イエスキリストの山上の説教(貧しい人は幸いである)の実践ということになる。

 

空の鳥をよく見なさい、種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。たが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは鳥よりも価値があるではないか…マタイ6:26

 

(環境)からの自由(孤立)であり、天(暗闇)によって支えられた星(我が身)ということを知る。それはアベル()を通した信仰(生き抜く)であり、命の言葉(時間)を通した今日(未知)を歩き出す勇気(燃える心)ということになる。私は私であり、世のだれが私を支えてくれるというのかという自問自答を通して、神にすべてを委ねる生き方が始まる。今日(瞬間は永遠)という我が身は命の化身であり、荷物という操作対象(世の言語環境に含まれない差異の世界)ではない。

 

だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日、自らが思い悩む。その日の労苦(他者からの罵詈雑言の嵐)は、その日(狂気)だけで十分である…マタイ6:34

 

  • 「キャロルのパラドックス」文中で対話を行う「アキレス」と「亀」は、アキレスが決してを追い抜くことができない、という運動に関するゼノンのパラドックスから取られている。キャロルは、この対話において、亀はアキレスに対し「論理の力を使って自分を納得させてみろ」と吹っ掛ける。つまり「単純な演繹からでてくる結論を私に認めさせてみろ」と言う。しかし結局アキレスはそれができない。なぜなら、カメが論理学の基本的な推論規則に対して「なぜそうなのか?」と、問いを発し続けてアキレスを無限後退に追いやるためである…ウィキペディア 
  • ゼウスパンドラに持たせたあらゆる災いの詰まった(本来は壺)。彼女が地上に着いたとき好奇心から開けたところ、すべての災いが地上に飛び出したが急いでふたをしたので希望だけが残った…コトバンク

24/1/26ブログ参照