23/12/30 | クリスチャンリンゴ事件簿、アッパールーム編のブログ

好奇心

好奇心とは自らの過去にはなく、自らの空っぽの心に欲する私(根源事象)が外からの刺激による皮膚感覚という意味(心象世界)となる。それは今から先(自分以外の世界)であり、目の前に起こっている出来事と物事ということになる。それは現象(ニュースな出来事と物事)という一般化の情報に含まれるものではなく、自然からの発見であり、現象(メディアメッセージ)に対する事象(非言語コミュニケーション)という神からのメッセージ(沈黙の出来事と物事)であり、外との接点(愛でる)という点(我が身)と点(相手)の間に想像力(無限の可能性)が隠されたメッセージを通して、神の御心に近づくことができる。それゆえ、神は私たちに自分と同じにゲーム(精神作用)に参加し、その喜びの感動を分かち合える意味(発見の連続)となる

 

兄弟たち、私はあなたがたには、霊の人に対するように語ることができず、肉の人、つまり、キリストとの関係では乳飲み子である人々に対するように語りました。私はあなたがたに乳を飲ませて、固い食物を与えませんでした。また、固い物を口にすることができなかったからです。いや、今でもできません…第一コリント3:1~2

 

霊の人とは肉(既成事実)を脱いだ生き方であり、現実世界からの死を意味(復活)することになる。復活とはゼロ(白紙)からの出発であり、パウロが語る〝乳飲み子〟という表現によって、相手の信仰を見ることになる。だから、私の文章を既成事実で判断するとすべてはゼロ(イエスの十字架)ということになる。それは、既成事実のなかで敵味方に分かれて、互いに争いが絶えないという日常に明け暮れているという肉の人の意味となる。

 

相変わらず肉の人だからです。お互いの間に妬みや争いが絶えない以上、あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいる、ということになりませんか…第一コリント3:3

 

私たちは現象に含まれていない夜の言葉(霊的)で生きているということであり、霊によって出来事と物事を受肉するという表現をしていることになる。それは、自らが発見を通して出来事と物事という意味世界を文章化していくことになる。そこで見えて来るのは、昼の言葉でイエスを語るとは、天にいるイエスを地上に引きずり降ろすという操作言語で神(偶像、自分が神の位に就き教祖になる)を語ることになる。それに対して、パウロは自分たちは神に仕える者であり、教祖(先生という偶像)として私たちを見るなと相手を戒めていく

 

ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。植える者と水を注ぐ者とは一つですが、それぞれが働きに応じて自分の報酬を受け取ることになります。私たちは神のために力を合わせて働く者であり、あなたがたは神の畑、神の建物(好奇心の造形)なのです…第一コリント3:7~9

 

私の文章は世の現象にはなく、事象であり、相手が現象(肉の人、格差社会での争い、ただ、混然一体となって川のように流れいく群集心理に覆い尽くされた日々)だとしたら、私の文章(差異)は無意味(good event)ということになる。

 

  • 確率論において、事象(event)とは、試行によって起こり得る結果をいくつか集めた集合で、確率があると考えられるもののことである。特に、これ以上分けられない事象(1つだけの結果を含む事象、数に入らない中庸の個性)を根元事象(こんげんじしょう)という…ウィキペディア
  • 『庸』については、現在、多くの学者たちは、『庸』が「優れた点や変わった点を持たない」(用例:庸才)と「平常」(用例:庸民)との両方の意味を含んでいると見ているほか、『庸』は「用」であるという説もある。つまり、中の道を「用いる」という意味だというのである。中庸の徳を常に発揮することは聖人でも難しい半面、学問をした人間にしか発揮できないものではなく、誰にでも発揮することの出来るものでもある。恒常的にいつも発揮することが、難しいことから、中庸は儒教の倫理学的な側面における行為の基準をなす最高概念であるとされる…ウィキペディア
  • 直接の先駆者であるキルケゴールは人間の自由選択の意義を強調し,未来の一部分はこの選択にかかっており,閉鎖的な合理的体系によって予知しうるものではないとし,このような人間存在を実存と呼んだ。他のものと代置しえないこの個別的実存のもつ哲学的重要性を強調する立場が広く実存主義と称される…コトバンク

23/12/25ブログ参照