クリスチャンリンゴ事件簿、アッパールーム編のブログ

期待と希望

私個人にとって期待とは、自らの過去(影絵)であり、その残像に対して可能性(依存)を求めてしまうという傾向(試験問題)と対策(正解例)という社会(参考書)を用いた人生を考えるということをしているように思う。それは私にとってデジタル人生であり、世の傾向に染まってしまう大衆としての記号を生きることになる。それに対して希望とは過去がゼロという疎外であり、自らの存在そのものを世から切り離した、自立というものを求めていく人生観ということになる。そして、私は信仰を通して自立を支えてくれる神の御心というタテ糸の人生をイメージした文言を聖書のなかに捜すことになる。

 

信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。昔の人たちはこの信仰ゆえに神に認められました…ヘブライ11:1~2

 

望むことは期待とは異なり、期待が社会から選別される枠組としたら、希望は秘められた無から発生する出来事ということになる。それは、期待がカインによって社会化されていく言語だとした、希望はアベルによって死から生が発生していくことになる。

 

信仰によって、アベルはカインより優れたいけにえを神に献げ、その信仰によって、正しい者であることを証明されました。神か彼の献げ物を認められたからてす。アベルは死にましたが、信仰によってまた語っています…ヘブライ11:

 

アベルは死にましたが、という文言によって現象界にはアベルは神と共に不在であるという前提を聖書ては語る。それは大地に建てられた文明都市に対する地下世界のイメージであり、大地に植えられた種という存在を指し示す。

地上からは大地に植えられた種は見えないというと道理であり、信仰の道とは世の言語環境には不在であると、聖句では語っていることになる。それよえ、私たちは不在(ゼロ)を通して、植えられた芽か出るように、自らの表現をしていくことになる。それは現象に対する対立を通した表現(アート感覚、抽象的な理性)であり、相手の表現と相手の心の矛盾をイメージを通して語ることになる。時代の人々はカインであり、私たちを無視しても法的には何の罰も受けることはないが、心は神への冒涜の罪によって覆い尽くされている。

 

  • 大衆の心理は、すべて中途半端なものに対しては感受性がいぶい。女性と同じことである。女性の精神的感覚は、抽象的な理性などに根拠をおくものではなく、自分の足りないところを補ってくれる力に対する漠然として、感情的な憧れに根拠を持ち、それによって決定されている。したがって弱者を支配するよりは、強者に屈伏することを好むのだ。大衆もまた、哀願する者よりも支配する者を好み、自由主義な自由を認めるより、むしろ、他の教義を一切認めない教義によって、深い内的満足を感じるものである…ヒットラー「我が闘争」より
  • 二種類の言語は関係は、逆向きに対立する。観念語(アナログ)を用いる言葉は逆にその映像喚起力を利用することによって、再び感覚性(情緒)を取り戻し、自己を豊かにすることができる。その場合、詩に近づくのだ。これに反し、映像は、自己を知的(デジタル)なものにしようと試みるとき、貧困にならざるを得ない。なぜなら、観念による言語は暗示的(イメージ)なものを利用するこによって、いわば自己の周囲の輝きを増し、その有効範囲(水の波紋)を広げるのに対し、映像による言語は、前者に対抗(既成事実による解釈)するため、自らの持っている感動力を脱ぎ棄てなければならないからである…ルネ・ユング

24/9/14ブログ参照