クリスチャンリンゴ事件簿、アッパールーム編のブログ

欲望と翼

他者によって組み立てられる宗教(自他の混交)というイデオロギーに対して、私たちは重荷というイメージによって彼らの言葉(律法主義、ファリサイ派)を忌避していく。欲望とは外への関係であり、人と人との間の奪い合い(それぞれの主張による互いの間の破壊)であり、それは日々のニュース(パレスチナ、イスラエル、ウクライナ、ロシア)という現象を通して、絶望の日々を生き抜くという生命現象(沈黙の弱者)のイメージとして見られる。それはダビデの外(現象に絶望している日々)の内なる世界観ということになる。

 

神よ、私の祈りに耳を傾けてください。嘆き求める私から隠れないでください。私に耳を傾け、答えてください。私悩みの中にあってうろたえています。私は不安です。敵は声をあげ、神に逆らう者が迫ります。彼らは私に災いをふりかかせようとし、憤って襲いかかります…詩編55:2~4

 

沈黙の弱者とは〝非言語〟の立場であり、相手の表現に対する応答(論争)ではなく、相手の心の世界への問いということになる。敵と味方の死体の山(生命現象)から、神の御心というイメージがわき上がるという第三の範疇であり、対立(生死の間)を通した二つの言語の分離を意味する。それは、外の現象に翻弄される日々から一歩引き、神の御心という空間に心を求めていくことになる。

 

胸の中で心はもだえ、私は死の恐怖に襲われています。恐れとわななきが湧き起こり、戦慄が私を覆い、私は言います「鳩の翼が私にあれば、飛び去って、宿を求め、はるかに遠く逃れて、荒れ野で夜を過ごすことができるのに。激しい風と嵐を避け、急いで身を隠すことができるのに」…詩編55:5~9

 

外からの絶望のイメージを通して、内なる世界から鳩の翼という新しい言葉が神から与えられる。それは壁(終止符)を通した新しい物語であり、ダビデの祈りの世界によって地上から飛翔していくイメージということになる。それは精神作用という肉体(我が身)を俯瞰していく詩人の魂を意味する。

 

  • 修道院さま、あなたは「最初に翼がやってきて、ついで天使がやってくる」とおっしゃすましたが、私どもはそんな言葉を聖書では見たことがございません。どうすれば見ることができるというのかね。ああ、おまえたちの心はまだ眠っているのだ。預言書を開いても、おまえたちの目には文字しか見えない。だが、文字が何を伝えられるというのか。文字というのは、監獄の黒い格子にすぎぬ。そこでは精神が悲鳴をあげ首を絞められているのだ。文字と文字、行と行のあいだ、そしてまわりの空白の欄外を、精神は自由に巡っているのだ。私はこの精神とともに巡り回り、おまえたち修道士にこの託宣を運ぶ。よいか、最初に翼がやってきて、ついで天使がやってくる。霊は霊によって理解される。これはルターが語った言葉である…ノーマンブラウン

24/7/2ブログ参照