クリスチャンリンゴ事件簿、アッパールーム編のブログ -2ページ目

弱いところを補う言葉

私たちは信仰を通して互いの間にイエスキリストの体(関係性)である前提を通して、互いの個性を了承していく。それは私()ではなく、霊(互いの間)によって成り立つ関係であり、社会性という出来事と物事の事象を通して語るのではなく、出来事と物事の意味を知ろうとする。

 

私の魂と敵対する者が、恥に落とされ、滅ぼされますように。私が災いに遭うことを求める者が、嘲りと辱しめに包まれますように…詩編71:13

 

事象という見える自分ではなく、事象を利用する人々の語る記号の自分を場から消し、出来事と物事を語る人々から無視され、覆い尽くされた事象(相手を消す)から逃れることができる。それは語る側への意味への問いであり、事象を無邪気に肯定する人々に対して、彼らの声(コンピュータ)に耳を傾けて、我々の内部に引き起こす響きを聞くべきであると問うことになる。

 

私は常に待ち望み、繰り返し、あなたを賛美します。私の口は恵みの御業を御救いを絶えることなく語り、なお、決して語り尽くすことはできません…詩編71:14~15

 

私たちにとって外と内の区別は大切であり、時代の趨勢はコンピュータという超合理性を通した記号化であり、その記号化から漏れてしまう私たちの心情というものが無効にされていく。それは誕生から死までのプライバシーの

時間(内部に引き起こす響き)であり、その内部をすべて認めてくれるのがイエスキリストの身体(互いの間)ということになる

 

神よ、私の若いときから、あなた御自身が常に教えてくださるので、今に至るまで私は驚くべき御業を語り伝えて来ました…詩編71:17

 

社会の事象に対して、神からのメッセージであるイエスキリストの身体(意味)ということになる。それは私の意味であり、相手の意味という、それぞれの個性への差異(異なる生き方)ということになる。

 

私が老いて白髪になっても、神よ、どうか捨て去らないでください。御腕の業を、力強い御業を、来るべき世代に語り伝えさせてください。神よ、恵みの御業は高い天に広がっています。あなたのすぐれた御業を行われました。神よ、だれがあなたに並びえましよう…詩編71:18~19

 

神の言葉とは沈黙(それぞれの内なる世界)からの発話であり、事象(コンピュータによる情報過多)が通過した夜の言葉(思考空間)ということになる。

 

  • 我々を傷つけ、せき立てる、敵意に満ちた、得体のしれぬ日常生活から、読書のおかげてしばしば逃避することができるのだから、読書は一種の浄めの儀式、多くの場合、一連のささやかな慣習的な手続きによって補強される浄めの儀式だということになります。このことから「白紙で覆ってしまう衣」とでも呼びうるものが、我々の社会における読書という名の儀式のなかで果たす役割も明らかになります。我々の書物が紙(空間)が白いのは、書物(神の御心と自分の心)が我々に与えてくれる、此処とは違う他処が、読書のページをよぎっていく動きによって、いわば白さの滲み込んだもの、洗礼を施されたもののようにして、我々の前に現れてくる。ときには、いまのあるがままの世界を厭う気持、世界の変革することの困難を前にしたときの失望落胆があまりにも大きくなってしまうため、読書は、むしろ好んでこの白さの宙吊りにうちとどまって、そこでようやく安らぎを見出すこともある。そうなると、書物のなかのこれらの記号のおかげて姿を現すものは、もはや、白い光を氾濫させるためのきっかけと見なされるでしょう…Mビュートル

24/7/2ブログ参照