47th | 山口粧太オフィシャルブログ『東京生活』

47th

「私は芸術家ではないです。芸術を否定してますから」

FM番組で横尾忠則さんが、そう発言した。
「ええと、それは・・」 困惑気味のインタビュアー。
「ああ、そんな難しい話じゃないんです。芸術ねえ‥まあ絵なんかは描いたって、いつ売れるか判らないし、幾らになるかも判らない。全くあてにはできませんよ。私は貰った仕事をしているだけだから、これは芸術とは言えんでしょうなあ」
「ははは、なるほど」
「朝早く起きて、散歩して、それから色々描いちゃあいますが、まあ下手くそで嫌んなっちゃいますよ」 75歳の横尾さんは笑ってそう答えていた・。

そんな巨匠と同列に位置する、私の先輩を紹介しよう(横尾さんが聞いたら怒るかも。俺は、もちっとマシだぞと)。

そしていささか長い文面になってしまったので、まあ適当に遮断して下さい。

↑左のMr.Ono (俳優・美術監督)66歳

40年程前、ハワイでのアメリカ政府主催の日本文化演劇祭に美術スタッフ(大道具)の一員として参加。

週給250ドル(当時1ドル=360円)に舞い上がり、そのままアメリカ(シアトル)に追随上陸。
ウハウハの給料で好き勝手をしていたが、やがて契約期間は終了。未練たらたらで帰国。

は、せずに・・
仲間と英語劇を上演しながら全米を彷徨う。

そんな最中、Jarome・Robbins(ウエストサイドストーリーの演出家)から舞台美術を評価され、「NYに来なはれ」と誘いをうける。

NYには行ったものの、若き日のOnoは俳優志望にこだわっていた為、Jaromeの美術スタッフの誘いを断る。


ビザはとうの昔に切れている。
ある日管理局にとっつかまる。強制送還。


は、逃れたいので・・
片っ端からアメリカ人の女友達に電話をかけ、結婚を申し込む。
もちろん応じてくれる人は皆無。電話帳の最後の一人に涙のアプローチをする。
答えは・・

YES
.送還前日、アメリカ人女性との結婚に成功。ぎりぎりでグリーンカードを手に入れる。


のはずが・・

グリーンカードは不法滞在の期間が長すぎたため発行されなかった。

強制送還は免れたものの、いつまでたってもグリーンカードは発行されない。

弁護士に指導を仰ぐ。

「Mr.Ono、子供が生まれれば、カードはきっと貰えますです」

「おおぉ、わかったあ」

居合抜きの如く、女児を生産する。とうとうグリーンカードをゲット!

のはずが・・

またしても却下。弁護士も頭を抱える。

「Mr.Ono、家族に病気の人はいないですか?」
「何言ってんだい。娘は勉強が出来るし、カミさんだって朝から酒をガバガバ飲むほど健康だぜい」
「それです!それは深刻な問題です!」
「ん?」
「奥さんは重度のアルコール依存症で… そうですねえ… 目を離すと… そうだ、自殺します!」
「お~~い!」
「アメリカは家族の問題に弱いのです。これでいきましょう」
「ほんまかいな」
冗談の様な申請ではあったが、なんとグリーンカードは発行された。
その日は家族で祝杯を挙げたという。しかも吐くほどに。

永住権は手にしたものの、生活苦に追われ始めたOnoは俳優業を一旦休止し、舞台美術のスキルを生かし、NYで店舗のデザインと施工の仕事を始める。
当時まだ珍しいアジアンテイストが受け、受注が徐々に増え、南米の皆さんが安く現場で働いてくれたお蔭もあって一儲けに成功。
楽勝楽勝と調子に乗ってマンハッタンでクラブ経営を始めるが、やはりお調子者なのですぐに潰れ、貯蓄が無くなる。
南米の皆さんに、あらためて電話を掛ける。

そんな親を見て育った娘ではあるが、横道に逸れる事もなく、立派に堅実に成長し、やがて大学を卒業する。
学費捻出の苦難からようやく解放されたOnoは、自ら書き溜めた脚本を題材に、演劇活動の再開を目論む。
そんな矢先、娘から衝撃的な相談を受ける。
「おとうちゃん。あたし医者になるわ。だからもう一度大学に行かせて」
アメリカの学費の高さは半端ない。しかも医学部!
衝撃がOnoを襲う。もはや生命保険か…

と、考える繊細さはまるで無いので、南米の皆さんの数を増やす事に専念する。

演劇の再開は再度延期。
すでにNYの生活は30年を超えていた。


……

    ↑右のMr.Kazu (演出家・剣道家)56歳


20年前にヨーロッパとアメリカを放浪中、NYで金が尽きる。

「帰る金もねえし、ビザも切れるし、どうするべ・・」 Kazuは摩天楼を仰ぎ見た。

そんな矢先、なんと、以前に申し込んでいたグリーンカードの抽選にあたる。


エドワード・ノートンを育てた演出家、Terry・Schreiberを熱心に訪ね、Terryが日本贔屓(ヒイキ)な事もあり、“演出助手”兼“日本語通訳”として採用される。
しかし英語力が乏しい事がスタッフ仲間に早々にばれ、総スカンを食らう。
仕事後にNY図書館での猛勉強の日々が1年続く。 

 明日は、明日こそは、もう日本に帰ろう・・ 
と、毎晩思っていた。Kazuは後日そう語った。


その後、KazuはTerry氏と共に日本に数回来日し、大きな仕事(演出)をいくつも手掛ける。
そして通訳の分際なのに、日本の有名女優達から「先生先生!」と呼ばれ、有頂天になる。


 あの女優もこの女優も俺に気がある・・

のはずが・・
Kazuに思いを寄せていたらしき女優達は、もちろん次々と有名人らと結婚をし、Kazuの妄想はやはり妄想に終わり、それでも今なお、果ての無い妄想をNYで続けている。


現在はTeryy氏の元を離れ、NYの自宅で舞台脚本の執筆活動を続けている。剣道を子供たちに教えながら(実は師範代でもあるのだ)。


……
そんな私は、2000年に某・有名女優からKazuを紹介され、念願のNYへ両親を連れ添って旅立った。
飛行機の窓から見えたエンパイア。初めて歩いた夜のタイムズ・スクウェア。あの興奮は今でも忘れられない。
Kazuは初対面の私達に本当に親切に接してくれて(特に私の両親に)、嫌な顔一つせず、あちらこちらへ連れて行ってくれた。毎日がシネマの世界だった。
もちろん豪華な事はできないが、父も母も映画が大好きなので、ティファニーとか、リトル・イタリーに訪れるだけで、おおはしゃぎなのだ。
ウォーホール、バロウズ、ケルアックが泊まったチェルシーホテル。すぐ横のスペイン料理店のパエリヤ。チャイナタウンのジョーズシャンハイの小龍包(今では東京にもありますね)。ユーガットメールのカフェ・ラロ・・
さすが演劇界に身を置くKAZUの案内はセンスが良く、粒ほどの退屈さも、旅の演出には見られなかった。
そして毎晩の〆(シメ)は決まってアイリッシュ・バー。その理由は簡単で、店内で煙草が吸えるから。
いつの時代も、深夜の不良のたまり場は、喫煙の吸える場所なのです。

……
それから数えて5度目のNY。Kazuは私にOno氏を紹介してくれた。
「君は俳優なの?現役なの?」 Ono氏の第一声であった。
「ええ・・まるでスターでもなくて、ひっそりとですが活動してます」
「そうか現役だね。なら友達になろう」
「え、どういう意味ですか?」
「うん。時々若い人を紹介されるんだ。役者とか監督志望とか歌手とかさ」
「はあ」
「全員じゃないけど、日本から逃げてきた人が多いんだよ」
「逃げてきた人」
「そう。日本では認めてもらえない。日本のシステムは間違ってる。だからNYに来ましたって」
「それが逃げた事になるんですか?」
「甘くないよここは。同じ土俵だとネイティブの英語しか認めてくれないしね」
「はあ」
「監督志望の子が、今度僕の作品をみて下さい!って必ず言うんだけど、持ってきたやついないし」
「なるほど」

それからほぼ毎日Ono氏と酒を飲み、下る事下らない事を山々と語った。
「Onoさんのこれからは?」
「オフオフ・ブロードウェイでもなんでもいいから、時代劇をやりたいね」
「NYで時代劇ですか。いいですね」
「役者は全員日本人」
「どうしてですか?それこそ2世、3世の日本人でもいいんじゃないんですか。英語も完璧だし」
「侍はね、日本を生きた、日本人にしか、演じられないと俺は思うよ」
真冬の雑居ビルの屋上で、Ono氏は雪よりも冷たいビールを、また一口飲み込んだ。

……
それから5年後の秋。
Kazuが日本に遊びにきた。再会を喜んだのち、私はOno氏の所在を尋ねた(Ono氏は
携帯もPCも持たないのだ)。
「Onoさんは元気なんですか?」
「あ、そうだ。Onoさんは多分、沼津にいるよ」
「ええええ!!」
「そうそう。去年からいるんじゃないかなあ」
「そうなんですか。明日にでも行ってみませんか?」
「僕も久しく会ってないし、いいね」

翌日。東名を飛ばした。
「でも、なんで沼津なんですかね」
「Onoさんのいとこの御実家が沼津にあって、しばらく無人だったらしく、老朽化したから建て直しをしてるみたいだね」
「なるほど。で、Onoさんが作ってる」
「そう」
「じゃあNYのビルは、ほったらかし?」
「それがねえ・・、あのビルは相棒だった韓国人オーナーにとられちゃったみたいでねえ」
マンハッタンの一等地に、Onoさんはその韓国人と共同出資でスパを作ったのだ。
「え、それで?」
「文無しになって、仕方なくNYを離れて、カナダに近い田舎で農園を作って、しばらくは物々交換で暮らしていたらしいよ」
「・・・」

沼津インターを降りた。
手土産はやっぱり酒だろうという事で酒屋に寄り、そこから御親戚宅に電話をかけた。
「おお、お二人さん、着いたか!」
「今、沼津インターを降りた所なんですけど、住所を教えて下さい、ナビに入れるんで」
「え~とな、わからん。とにかく沼津港の入り口に来なよ。そこで待ってる」
30分程走り、到着した。
真っ黒に日焼けした、Tシャツ姿のOnoさんが立っていた。バカみたいに大きく手を振って。

予想通り、酒を渡すとOnoさんは仕事を中断した。
「Onoさん、一人でこの家を作ってるんですか?」
「そうだよ。2年がかりだ」
「へえ、それは凄い」
ここで驚いた顔をしたのがKazuだった。
「え、Onoさん、グリーン・カードの更新はどうしたの?」
どうやら、ある一定期間はアメリカに住んでいないと、更新の際にグリーンカードは失効してしまのだそうだ。
「もう、いいよアメリカは。俺はここが気に入ったし」
Kazuと私は唖然とした。そして笑った。「Onoさんらしいなあ・・」

「ところでOnoさん、例の芝居の本は出来たんですか?」
「ああ出来てるよ。NYにいた時に一度コンペに出したけど、ダメだった」
「じゃあ、どうするんですか?」
「沼津でやればいいじゃないか。なあ粧太、KAZU、沼津じゃ幾らで芝居ができるんだ。小さい小屋でいいんだ」
「沼津なら安くできると思いますよ。場所もあるでしょうしね」
「そうか、幾らだ?2000万か?5000万か?」
「え・・ そんなにかかりませんよ」
「おおそうか。なら、やろうやろう!本も手直ししたんだよ」

大いに酔っぱらった3人は、すぐ傍の海岸へと飲み場所を変えた。
「いい海ですねえ」
「な、いいだろ。ここで走ったり、発声練習したりしてるんだよ。ウオ~~!」
「ははは。ボケ老人と思われません?」
「FUCK! よし、相撲しようか。お前らには負けないぜ」

遠く富士山に少しだけ雪が乗っかり、安ワインの中を、貨物船が通っていた。



今日私は47歳になった。

歳をとることは、ちっとも悪くない。

……
おまけ。

これから暖炉を作るらしい。どうやら無給で手伝わされそうだ。