所在地   大分県速見郡日出町

城主    木下延俊

時期    慶長七年~明治初期

 

 

訪城紀行

大分市内から国道10号線を別府しに向かう途中、大崎山城跡に行こうと思い、海側と反対側の登山口のある、県道51号線を走ろうと思い県道との交差点を探したが分からず、諦めて別府市を越えて日出城まで来る。

日出城には城の探索をする前に「日出町ふるさと資料館」に先に来る。資料館の館長が

親切な人で色々と丁寧に説明してくれた。資料館の駐車場に車を止めたまま日出城を探索する。その後、藩主のある「松屋寺」に行く。

 

 

 

3月3日、お雛さんの時期だったので櫓の中に雛壇が祀られていた。

 

 

復元前の(下仁王の中村家屋敷内に建てられていた頃)鬼門櫓

 

 

歴史資料館の前に復元された鬼門櫓

 

 

二の丸館

 

裏門櫓

 

 

二の丸館の敷地内にある井戸跡

 

 

本丸入口の土橋上に蒲鉾形の石塀が現存している。

 

 

滝廉太郎の像

 

 

鐘楼

 

 

天守台

 

 

 

望海櫓跡

 

 


 

 

昭和35年(1960)に築城当時の人柱が発掘されその場所に

人柱碑を建てる。

 

 

沿革

日出城は、慶長六年(1601)八月、木下延俊(のぶとし)が三万石で入部したのに始まる。

延俊は同年秋より築城に掛かるが、それまでは、その地は青柳村と呼ばれ、人家まばらな

寒村であった。築城に際しては、延俊の妻の兄にあたる豊前中津城主細川忠興の財政的援助をはじめ、縄張り、石工など物心両面での援助があったと言われている。

その為か城がほぼ完成したのは翌年八月であった。

城は豊後一、二と言われてる良港、日出港に臨む崖上の要地に位置している。台地の南端に本丸を設け、その東、北、西に「二の丸、そしてこれらの東側に「三の丸」が位置し、日出港に面している。本丸は、南を別府湾とし、これを天然の城堀としている。山城が岩崖を天然の要塞としていれば、日出城は海城である。

本丸の南東隅に天守を設け、北東は鬼門に当たり、石垣を欠き、鬼門櫓が位置している。

また、裏鬼門に当たる南西部も石垣を欠くなど鬼門調伏に気を配っている。

日出城は木下延俊以来、明治の廃藩まで木下氏の居城である。260余年の長きにわたっ

って別府湾にその偉容を誇ってきた。これらの天守、櫓も鬼門櫓と裏門櫓を残して、明治六年取り壊された。明治八年、裏門櫓は当時の「二の丸」にあたる民家に残され、望海櫓は本丸に建てられた日出小学校の教室に使われ、大正十年五月に取り壊された。

明治期に取り壊されず、残っていた鬼門櫓は大正十年に民間に払い出されたが、現在は日出小学校西側に移築復元されている。

現存、日出城は本丸の南が別府湾になり、東側の空堀、北側の水堀、西の空堀や天守台の石垣などが残されているが、本丸には日出小学校が建ち、二の丸は日出中学校で、土居も全く姿をけしている。大手門前の上級武家屋敷の遺構は残されており、当時の城下の雰囲気を伝えている。

 

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