こんにちは、河口湖町にある介護老健保健施設はまなすに勤務している、介護士の志賀と申します。今回バトンを受けブログを投稿します。

 

介護長、事務長からさわやかな笑顔と共に、「災害派遣の話をまだ聞いていない・・」と諭され、「ブログ・・やっやります」と返事をした次第です。

 

1月1日に発生した能登半島地震発生からすでに1ヶ月が過ぎようとしたときに「志賀さん派遣日が決まりました」と連絡を受けました。1月の第2週を過ぎたころ、施設長から有志を募ると全体連絡がありました。家族に説明了解をとり、勤務の調整をつけ、いざ1月31日出発となりました。

 

軽トラを運転し400キロ。途中で誰もいない日本海を見ながらヒスイを探したりもしました。きっと何気に緊張していたのだと思います。

 

 

 

ようやく目的の1.5次避難施設の石川スポーツセンターに到着。中に入ると「運動するぞー」といういでたちの仕事帰りの方が、颯爽とトレーニング室へ向かって行く。あれっ普通の体育施設???。そして右側を見ると、色とりどりのゼッケンをつけた人たちが忙しそうに働いている。しばらく眺める。こっちだ。次の日から勤務なので、その晩は軽トラの荷台にテントを張り、かっこよくいえばソロキャン気分で過ごしました。明け方は雨が降りこみ寝袋が少し濡れ、そしてやっぱりなかなか眠れませんでした。

 

いざ翌日オレンジゼッケンの調整担当の方に、名前と施設名、夜勤シフトで来た旨を伝えると、「お名前ないですね・・」と。一緒にリストを眺めても見当たらず、結局はそのまま日勤でスタート。オリエンテーションが始まり、黄色いゼッケンの介護職の方と話すと、北海道から来られたそう。伺うと毎日が全国から入れ替わり集結しているとの事。「主に最初のヒアリングは保健師が行い、まあケアマネ業務みたいなもので、そのあと``必要となる情報``を各専門職(介護、リハビリ、看護師、ソーシャルワークなど)に振っていく。その逆もしかりで介護職が被災者から車椅子のリクエストを受けても、保健師経由でリハビリにつなげていく、という具合です」などなど。その他テントの並び方、名札の見方(赤〇が胃腸炎ノロなど、青〇がコロナ)を教わりつつ、その方が話の流れでボソッと一言。「えっ、あの軽トラのテントって・・昨日駐車場で見ました。私はホテルから車で通っています」と。航空券及び宿泊施設の手配など勤務施設がしてくれたそうでした。私はそれから二泊仮眠室で過ごし、それ以降の3泊は金沢名物?のチャンピオンカレーが食べられるホテルから通いました。私たち介護職は決められた業務(食事、排泄、入浴)以外の時間は基本的にテントの間を縦横無尽に歩いていました。朝8時から夜8時まで、1日が終わるころになると「今日何歩やった?」「俺3万超えたわ」など出身地の方言イントネーションが効いた報告会が開かれてました。1.5次避難施設とは、医療などに繋がりやすく、安全や避難所としてライフラインが整っており、また被災地から離れ安全も確保されている場所です。その頃は、「2次避難をどこにするか」「いつ現地に仮設施設が出来るのか」「この先どうなるかさっぱりわからん」などテントに様子伺いにいくと話を聞きました。通常業務以外に出来るのは傾聴でした。

 

「お店をやてったよ~」「木彫りやってただんだ、この杖の頭見てみな」「なにあんたおいしそうなコーヒー持ってるじゃん、え何あっちでもらえる、ならいかんと~」「伍代夏子が来る?この前だんなもきてくれたんだよ」「私んちは能登で牛やっててね~」「あんた山梨からきてるの、ありがとね」などなど世間話の方が実際多かった気もします。地元金沢からのボランティアで活動されている方もいました。「せっかく来たからおすすめのお酒を買って帰ろうかと思います」というと「珠洲の宗玄」を薦められました。

 

記憶に残っている言葉は

「なんだ、あんた帰るんか」よく笑いながらからかわれていたおばあさんに、最終日さらっと言われました。ふっと肩の力が抜けた瞬間でした。

ドコドコと軽トラを運転して帰宅し、家に入る前にした抗原検査は陽性で、家族に会うのはさらに伸びましたのがちょっとあれですが、とにかく派遣に行かせてくれた職場には感謝をしています。また復旧には時間が長くかかると思いますが、被災された方が前に進めることを願っています。

*令和6年能登半島地震にかかる介護職員等応援派遣」は現在も継続中となってます。

 

 

                        介護老人保健施設 はまなす

                       介護士 志賀隆昌