〜誰も書かなかったトルコ〜

 

 

トルコでクーデターが起きた。決起に失敗したから厳密には未遂事件と言うべきなのであろう。

私の場合、トルコ国立オーケストラの指揮者という立場から、文章に書き表せる内容に限界があることにご容赦頂きたいが、可能な限り深層をえぐってみる。

ニュースの映像を見る限りエルドアン大統領の呼びかけに応じた市民がクーデターを阻止したという解釈が一般的だと思う。ところが、真相はそのように単純な美談で済まされるものではない。

 

エーゲ海に面したイズミールの空港から市内に入ると周辺の小高い丘の斜面に沿って住宅が所狭し、と立ち並んでいる。ローマの古代都市のようにも映る壮観な景色は、夜景になれば星をちりばめたように美しい。イスタンブール、アンカラなどにも似たような丘があり、そのような景観は同様である。

ところが、丘の麓から頂上まで隙間なく建てられた家々は、すべてバラック建築によるスラム街である。その夜景は星の煌きというより文字通り、星屑(スターダスト)だと言える。

これらの建築物は殆どが公有地に建てられた不法建築であり、トルコ語でゲジェ・コンドウ(一夜建築)と呼ばれている。そして不思議にも電気、ガス、水道などが引き込まれている建物が大半であるが、下水道がないから不潔極まりない状況である(一部には完備されている地域もあり驚かされる)。

当然ながら違法建築物だから登記もされず、統計資料もないが、首都アンカラでは、ピーク時に24万戸、130万人(アンカラ市人口の半数近く)がゲジェ・コンドウの住民であったと推測されている。

 

農村から貧民層が都市部に流入して、あっという間に公有地の山肌がバラック住宅で密集したため、スラムの住民にもある種の居住権を付与、代替えの住居を提供せねば立ち退きを要求出来ないという、貧民たちに「神の保護」と言わせたほどの法律が50年ほど前に制定されたのである。

そのため悪徳不動産業者が違法建築を公然と建売販売したから、イスタンブール・アンカラ・イズミールの三大都市におけるスラムの拡大に拍車がかかったという副作用も生じた。

 

都市部のスラムの膨張は農村部の貧困に起因するものが大きい。トルコ建国の父、ケマル・アタチュルク(後述する)が農地改革の道半ばで死去したため、オスマン帝国以来の大地主制度が中東と接するトルコ東部を中心に残ってしまった。オスマン帝国時代に中央アジアの草原から流入していた遊牧民の定住政策が仇となり、アタチュルクの没後に、酋長を地主、部族民を小作人と定めたため農業従事者の格差が拡大した。その遊牧民たちが細々と収穫した農作物の価格は、断続的に続いた都市部のハイパーインフレに追い付かず、貧困に耐えられない農民たちが大挙して都市部に移動して大規模なスラムを形成するに至った。貧困者対策として設立された連帯基金制度という公的扶余(簡単に言えば生活保護)をエルドアン政権は拡充して、政権発足時の2002年にはGDP0.3%であった予算を10年後の2012年には1.2%まで増額した。加えてスラム解消の代替え住宅として、建築バブルと環境破壊の批判を浴びつつも公共住宅を大量に供給した。

 

その共同住宅は協同組合が所有者となり、居住者は組合の構成員だから家主として自分に賃貸する形態になっている。その居住権の価格の詳細は知らないが、聞くところでは極めて安価であり、権利を譲渡することも可能である。いわば会員権のようなものだから所有権よりかなり安く購入、転売すればインフレ下のトルコでは大幅に値上がりしている。

このような恩恵に預かった脱ゲジェ・コンドウ(スラム)の民衆たちが今回のクーデターを未遂に終わらせた主役なのである。戦車によじ登り進軍を阻止した光景は天安門事件を彷彿させるが、本質は全く異なる。エルドアン大統領はSNSで自己の政権の支持者たちに人の盾になれというメッセージを発し、それが成功したのだが、中流層の有識者たちには極めて不評である。(あまり日本では報道されていない)そもそも国民を守るための政権が、権力維持のために国民を危険にさらしたという論法である。中流層(西欧化世俗主義の信奉者たち)の不満はそれだけではなく歴史に基づく奥深いものである。

 

ここで、オスマン帝国(トルコ人はオットマンと発音する)について述べておきたい。モンゴル~中央アジアにかけて広く展開していたトルコ系の遊牧民の軍事集団が小アジア(現在のトルコ共和国東部からシリア・アゼルバイジャンあたり)を拠点に集結して周辺の部族を配下に収めた。その強大な軍事力を持ってビザンチン帝国、その首都コンスタンチノーブル(現在のイスタンブール)を陥落させたのが1453年、日本史では室町中期、応仁の乱の頃である。ビザンチン帝国の正式な国名は千数百年にわたりローマ帝国であり、ビザンチンという呼称は後世の通称であるが、イタリア・ローマを首都とした古代ローマ帝国との混同を避けるためビザンチンという通称で書き進める。

ビザンチン帝国を滅亡に追いやった後、その版図は現在の東欧一圓、北アフリカ、中東地域の大半という空前の大帝国を築いた。ラテン人(スペイン)がグラナダを陥落させサラセン帝国によるイスラム支配を脱した後、北アフリカ進出を試みたがオスマン帝国によって阻まれたことなど、ヨーロッパの中東進出を数世紀にわたり遅らせた功績があるともいえる。後年になりサダム・フセインのイラクがクゥエートに進行、本来はイラク領土であったとの言いがかりに対して「、フセインは何をご託を並べているか!そもそも中東全域がトルコ領であった」という指摘がトルコ人のコンセンサスであった。

 

オスマン帝国が多様な民族と言語に宗教が混在する地域を500年あまり支配できたのは、キリスト教に寛容で人種差別もせず緩やかな連合国家を形成していたということに起因する。ところが、広大なオスマン帝国も日本史の江戸時代の頃から徐々に宮廷と取り巻きの人々の堕落や腐敗により弱体化していたが、遂に明治9年~10年にかけて東欧のスラブ民族の支援という名目で大挙南下してきたロシア軍に完敗、首都イスタンブールは陥落寸前であった。この露土戦争に敗れたためブルガリア、ル-マニア、セビリアなどの東欧諸国の独立を許すことになり、さらに国力が低下した。

余談であるが、明治3738年の日露戦争で極東の日本が憎きロシアに勝ったことがトルコ人の溜飲を下げ、現在に至るまで大の親日国家である大きな要素になった。東郷元帥や乃木大将の知名度は現代日本の若者よりはるかに高い。私の祖父が乃木大将麾下の第三軍の兵士として旅順を陥落させたと話すだけで敬意を表されるほどである。それほどまでに憎いロシアに対抗するためオスマン帝国はロシアと対峙していたドイツと条約を結ぶことになった

 

ドイツとの同盟は大英帝国という新たな強敵を出現させ、オスマン帝国は崩壊の一途を辿ることになった。英国はオスマン帝国の支配地域である中東に多くの石油資源が眠ることに着眼して、アラブ人、ユダヤ人の双方に二枚舌外交をしてパレスチナ独立を画策した。オスマン帝国を揺さぶるために手段を選ばない狡猾外交が現代におけるパレスチナ紛争の根本原因になった。

1914年(大正3年)~1918年(大正7年)にかけての第一次世界大戦中も英国はサウジアラビアの独立運動を扇動、後に「アラビアのロレンス」という映画に描かれたように英国軍のスパイが暗躍してオスマン帝国を翻弄したのである。そしてオスマン帝国はドイツと共に大戦に敗れた。

再度の余談だが、イズミール交響楽団で映画音楽特集のプログラムを組んだ時に、くだんの「アラビアのロレンス」を演奏した。演奏者や聴衆にとって屈辱的な映画の音楽だから酷評を受けると覚悟していたが、美しい音楽だから構わないというトルコ人の懐の深さに感動したことを思い出す。ナポレオン戦争でロシアに負けた描写のあるチャイコフスキー作曲「1812年序曲」を絶対に演奏しないフランスのオーケストラや聴衆の料簡が狭いように感じてしまう。

 

ギリシア人はビザンチン帝国を構成するラテン民族の中核であったが、ビザンチン帝国の滅亡後、ギリシア系住民が住むアテネやスパルタなどの古代都市を含むか輝かしい地域も長らくオスマン帝国の支配下にあった。ところが第一次大戦後の混乱に乗じギリシア軍が攻撃に転じ、疲弊したオスマン帝国軍は、なすすべもなく敗れるところ、ケマル・アタチュルクが民衆の義勇軍(高杉晋作の奇兵隊と同様の民兵組織)を組織してギリシアに打ち勝った。その結果、アタチュルクは大衆の支持を得てオスマン皇帝を追放、トルコ共和国を1923年(大正12年)に建国した。首都もオスマン帝国の歴史的影響の残るイスタンブールではなく、ローマ時代からの古都であるアンカラに設置した。

 

アタチュルクは精力的に脱イスラムを図り、西欧的な新憲法の発布、その後の改訂でイスラム教を国教と定めるという条項を削除、トルコ語もアラビア文字を止めアルファベット表記に変えた。

そしてアタチュルクは「私がトルコだ!!」と言った有名な演説を議会で行い、共和人民党による一党独裁政権を揺るがないものにした。昨今の支那や朝鮮、それとプーチン支配のロシアなど独裁政権には負のイメージ(イメージではなく実害)が定着しているが、アタチュルク政権はリー・クワンユー首相のシンガポールと同様に良質な独裁で国民に支持され、健全な国家建設に寄与した稀有な成功例である。

 

政治・経済・文化・宗教・社会など精力的に改革を推進したアタチュルクはプレジデンシャル(大統領府)交響楽団をアンカラに設立、著名作曲家のパウル・ヒンデミットを指導者に招いた。ターバンやベールの公共の場での着用禁止などで世俗化を推進、また創姓法により国民に姓と名の両方を名付けることを義務化、更にイスラム法では禁じられている飲酒も解禁、自身もラク(トルコの代表的な蒸留酒)の飲みすぎによる肝硬変で建国15年後の昭和13年に死去している。アタチュルクに感化された訳ではないだろうが?現在のトルコ人も酒豪が多く,、街のレストランやパブは深夜まで賑わっている。

 

アタチュルク自身は自分を偶像化(神格化)されることを拒んでいたらしいが、現在の紙幣にはすべて彼の肖像画が描かれ、公的機関(民間企業も含む)には肖像画が掲げられている。その他、イスタンブールの空港や大学にも彼の名前が冠されており、公的な場でアタチュルクを誹謗中傷すると法律で罰せられる。そして命日の1110日午前9時5分にはトルコ全土で2分間の黙とうがされる。これ程の敬愛を集め、ドラスティックな欧化政策を推進可能にしたのは、アタチュルクがカリスマ指導者であった事と他にもう一つ大きな要因がある。

 

ビザンチン帝国の人口統計が存在しないため推測の域は出ないのだが、1200年代(日本史・鎌倉時代)には5600万人、コンスタンチノーブル陥落の頃(室町時代)には1000万人弱の人口であったと言われている。同時期の日本では、鎌倉時代が500万人(首都鎌倉は20万人)、室町時代には水田の耕作法が進歩して8001000万人に増加(但し首都の京都でも15万人)と推定されている。欧州有数の大都市であったコンスタンチノーブルは40万超の人口を抱えていたが、オスマン軍による襲撃前には大半が霧散してしまい4万人しか居住していなかった。そのためビザンチン皇帝はイタリア・スペインからの傭兵を加えても7000人の軍隊で10万のオスマン軍を迎撃せざるを得なかった。

圧倒的な火力(大砲と爆薬)を持つオスマン軍も1000年の帝都を防御してきた三重の城壁(テオドシウスの城壁)の突破が2か月間も出来ず、業を煮やしたオスマン皇帝はボスポラス海峡に展開した海軍の軍艦の一部を人海戦術で陸に引き上げ、金角湾の奥深くに軍艦を浮かべて艦隊を出現させたことでジェノバやベネツイアの援軍艦隊を挟撃、海上封鎖により補給を絶たれたビザンチン帝国が滅亡した。

 

トルコ全土に現存するトロイやエフェソスなど古代ローマの遺跡の規模と数は、イタリアのローマを凌駕するほどであり、キリスト教会をモスクに転用した例を除けば人為的な破壊は殆どしていない。その古代ローマ円形劇場の遺跡ではイズミール交響楽団が毎夏、野外コンサートを挙行しているが、音響効果が絶品であることを書き添えておく。

オスマン帝国軍の占領政策は、旧ビザンチン帝国住民に対しても政治と軍事を除く、文化・宗教・経済活動などにおいて一切に寛容であったから、ギリシア系の住民を中核に地中海やエーゲ海沿岸の海洋国家、ベネツイアやジェノバなどのラテン系ローマ人もビザンチン帝国滅亡後も同地に住み続けたのである。現にイスタンブールにはベネツイア人やジェノバ人の居留地跡が現存、その末裔がトルコ人として暮らしている。在日朝鮮・韓国人の若者が日本語しか話せなくなりつつある事象と同様に、彼らはラテン語を解せなくなり宗教もイスラム教に改宗している。ところがキムチを食べ続ける朝鮮半島の人と同じで、食文化は500年の時空をこえ、現代トルコ、ギリシア両国民に共通した味覚が引き継がれている。アタチュルクの愛したトルコ酒のラクはギリシアではウゾと呼ばれギリシアの国民酒である。ぐるぐる回転する肉を周囲から焙り、そぎ落としてスライスするドネルケバブはギリシアではギロと呼ばれている。その他、ケバブやスブラキのような串刺しの肉料理も共有しており、蜂蜜を大量に使用した甘い菓子(甘すぎる)も互いに自己の固有のものであると主張しているが、ルーツに関する結論は出ない。

 

東方から侵入したオスマン帝国の民(主に遊牧民)は自分たちより遥かに人口が多かったビザンチンの人々を皆殺しに出来る訳もなく、全員と混血した訳でもないから、ローマ人(ビザンチン帝国人)とそのDNAは色濃く500年のオスマン時代を生き延びたのである。エーゲ海に面するトルコ第三の都市イズミールの住民はローマ人の末裔とおぼしき人が大半であり、トルコ政府のイスラム化政策には激しく抵抗する人が多い。

 

ローマ人の末裔にはヨーロッパへの郷愁が強く、例えばトルコ西部に位置するイスタンブールのボスポラス海峡にかかるガラタ橋の西岸をヨーロッパ(確かに車で走ってもブルガリアやギリシアには2時間ほどで到達する)、東岸をアジア側と呼んでいるが、実はトルコ領の大半がアジア側に属している。それでもイスタンブールがヨーロッパと陸続きであることがローマのDNAを持つ人々には極めて重要なのである。そして、世俗主義・欧化主義を支持する人々の悲願がEU加盟であるが、イスラム化を推進するエルドアン大統領がクーデター未遂事件を機に死刑制度の復活を言い出した。それは即EUとの決別を意味するからローマ系のトルコ人たちには到底許容出来るはずがない。

 

結論から言うと、アタチュルクの欧化政策を強烈に支持したのは旧ローマ人の末裔たちなのである。言い換えれば1453年に滅亡したビザンチン帝国がアタチュルクの革命により、ヨーロッパ東岸のトルコ共和国として復活を遂げたと言えなくもない。ところが総選挙をすると農村の貧困層や都市部のゲジェ・コンドウのスラム住民の方が票数が多いので、アジア系の遊牧民の末裔たちにより繰り返しイスラム化の運動が起きる。それを数度にわたり押し止め、アタチュルクの世俗主義を守ってきたのが軍隊によるクーデターであった。

 

トルコ人には長年にわたり強権を発動する人物(政権)に従ってきた歴史がある。私が外務省の外郭団体である国際交流基金の派遣で初めてトルコに行き、プレジデンシャル(大統領府)交響楽団のゲスト指揮をした時にトルコ人の常任指揮者と一緒に彼の執務室で昼飯を食べていた。そのときサンドイッチの具を床に落としたので、それを拾い上げようとした私を制して、彼が大声で侍従(下僕?)のような男を呼び拾うように命じたのである。私は自分で落としたものだから自分で始末するのが当然だと思い呆気にとられたが、トルコのマエストロ氏いわく、奴の仕事を奪ってはいけないと私を諭したのである。トルコ政府のゲジェ・コンドウ住民の雇用策として政府機関では大勢の貧困者を雇っていたのである。その後、イズミールやアダナ、ブルサなどのオーケストラでも不要と思える人材が多数存在することを知ったが、どこでも貧富・教養ともに酷い格差がありオーケストラの団員は常に強者の立場で彼らに接していた。ところが、私の専属運転手であったハッサン(英語はワン・ツー・スリーすら話せない)という男をトルコ語の出来ない私が可愛がり、食事の場にも同席させるようにしてから団員達の意識も少し変わり、弱者への労り、ねぎらいの雰囲気が醸成された。私は今でも小さな功績として誇りに感じている。

 

国立オーケストラの楽員は世俗政策下では西欧文化の担い手として高い報酬や良質な公務員住宅の提供などで優遇を受けてきたから、当然だが誇りが高い。毎年必ず全楽員から立候補を募り、5名の役員選挙が行われるが、選出されても楽員としての給料に上乗せする手当が出るわけではない。それでもディレクター(監督)というポジションを望むのは名誉が満たされるからであり、役員に選出された日から多数の事務員、下僕、お茶くみの女中、掃除婦などの管理者として君臨するのである。中には高圧的で横暴な輩もいて、陰ではオットマン・スタイルの奴(オスマン帝国式)だと揶揄される。一般に楽員のリハーサルでの服装は極めてカジュアルなのだが、役員に選出された日から急に背広を着てくる。実に可笑しい習性だが背広を着た人間にはオットマン的な振る舞いを許容するのがトルコ人なのである。

 

だから、クーデター後の処理でエルドアン大統領が次々と強権発動をしているのを、背広を着た役員にひれ伏す楽員と国民を置き換えればトルコ人の習性として理解できる。ところが単純なオスマン式の強権だけでは説明がつかないことが起きている。それは軍人・警察官に限らず、数千人規模で法曹界や教育者たちの粛清、その他考えられない規模で諸々の人事や収監を行っている。

 

イズミール交響楽団が2000年、2001年と日本で公演したころがオーケストラとして絶頂期であった。その当時、フルタイムの月給をもらえる正団員が130名ほど居り、毎週の定期公演にローテーションを組んで交代に奏者を休めてもマーラーやベルリーズの大編成プログラムを悠々と消化できた。ところが2002年にイスラム化を標榜するエルドアン政権が発足してから表面上の文化予算は変わらないが、大きな変化は新団員の補充が叶わなくなったことである。団員は皆公務員のため一律65歳で定年になるが、例えばトランペット奏者が定年になれば同じ楽器の奏者を補充せねばならない。またトルコ人は若くして病没する人が多いため、私も目を閉じると多くの優秀な仲間たちの顔が瞼に浮かぶが、彼らの補充も出来ない。イスラム化政策の推進から15年経過した現在の団員数は70名を下回るようになってしまった。それも楽器のバランスが無視されているから12名いるビオラ奏者は順番に休みを取れるが、5名しかいなくなったチェロや定数を大幅に下回るバイオリンは休みを取れなくなった。それが原因で楽員間に不穏な空気が流れ、当然ながら演奏のレベルも大幅に低下した。

 

個々の団員の給料を減額されなくても、このような処置はオーケストラにとって真綿で首を絞められるようで実に苦しい。徐々にダメージを蓄積させられたボクサーのボディブローのようであり、1980年ころのインドネシア・ジャカルタ放送交響楽団の状況を想起させられる。オランダ統治時代にはオランダ人とインドネシア人混成の立派なオーケストラであったそうだが、当時のインドネシア政府のイスラム原理主義への回帰政策のため教育環境が激変、西欧文明の代表であるオーケストラ奏者の育成が滞っていた。当時はオランダが撤退してから35年間が経過していたため、オランダ時代の奏者が次々に死亡、その穴を埋められず団員は30名ほどになり自然消滅の途を辿っていた。現在は政府の政策転換により技量は低いがオーケストラが復活したという話は耳にした。

 

苦し紛れにイズミール交響楽団員の一部は現政権のイスラム化政策に融和させるため、イスラム教の民族音楽を演奏しながら西洋音楽を織り交ぜる新オーケストラを設立させ、予算を確保しようという試みも数年にわたりトライしているが功を奏していない。その融和的な行動が政権に媚びを売るものだと批判する団員と内輪もめまで起きている。例えば日本でN響が予算確保のため神道の雅楽を中心に演奏する集団を編成したら???と想像すれば異常事態であることは自明の理である。アタチュルクが西欧化世俗主義の象徴の一つとして育成してきたオーケストラが危機を迎えているのである。

 

ここまで書けば今回のエルドアン政権による過剰なまでの粛清の深層が解ってくる。つまり貧民層からの得票数で議会を制しているイスラム政党ではあるが、極言すれば政治以外、経済・文化・教育はビザンチン帝国以来のローマ人の末裔たちに実権が掌握されている。そして、その人たちが水面下で形成する世論によってアタチュルクによる世俗革命の番人である軍隊が再決起することを恐れているのである。背広を着ただけで権威を感じる(感じさせる)トルコ人の習性のため表面上は恭順しているように見えてもビザンチンの流れをくむヨーロッパ志向の人々をエルドアン大統領は極端に警戒しているのが深層である。私が書けるのはここまでであり、この先の推測は差し控えるが、今後の状況は予断を許さないと思う。