言葉のポプリ(Ameba)

言葉のポプリ(Ameba)

日々、思ったことを、短い文章で綴っていきます。

2019年6月13日、Yahoo!ブログから移行。
2019年7月より、不定期にこえのブログ。

先週の土曜日から、僕も同居の妹の体調も優れなかった。それで、妹が務めている会社を休んで、病院に行くと、コロナに感染しているとの診断を受けた。

おそらく、僕もコロナに罹患しているだろうが、僕は、しばらく安静にして、様子を見ようと思う。

 

人は皆、死ねば人生が停止する。

 

そして、地球が滅亡しようが、太陽系が滅亡しようが、全宇宙が滅亡しようが、停止した誰の人生も、再び動き出すことはない。

 

科学的には、永遠に停止するのである。

 

高齢化が進み、杖を突いて歩く高齢者が増えている上に、コロナワクチン後遺症で若くして杖を突いて歩く「杖ラー」という若い人も、地方でもよく見かけるようになった。

それを見ていないのか、それとも皮肉っているのか、政府はいつものように「骨太の方針」を公表した。
 

そりゃあ、僕だって勝負には、勝ちたいさ。
でも、無理して、勝とうとは思わない。
どうしてかって、負けた自分も好きだから。
 

立候補者が傀儡(かいらい:操り人形)なら、投票する有権者も傀儡。そんな虚構の民主主義を続けていても、日本は滅亡の道を歩むだけである。
 

我が国、日本には希望が無い。なぜなら、
政治家たちが、希望を利権に変えてしまったから。

 

時間の前髪は、「夢中」に引っ張られ、
時間の後髪は、「退屈」に引っ張られる。

 

仏の位順には、「如来」、「菩薩」、「明王」、「天部」とあって、位が高くなるほど、質素な衣装である。「天部」には武装天部と呼ばれる鎧をまとい剣を持った仏様がいるのに対して、「如来」の阿弥陀如来にしても釈迦如来、大日如来にしても、薄い布をまとっただけで、手には何も持っていない仏様。唯一、薬師如来が手に薬壺を持っているだけ。僕は、そういう仏教の教えを反映しているのが、日本国憲法の第九条だと思う。

日本に仏教が伝来して以来、歴代の天皇や時の権力者、将軍や武将が、仏教を信仰していた背景には、そういう非武装こそが最も尊いという仏教にこそ、国家を治める者が目指すべきものがあると知っていたからではないだろうか。

そして、経緯はどうであれ、それで日本がたどり着いたのが、日本国憲法の第九条の戦争放棄だと思う。

そう考えると、今、憲法改正を唱えている政治家が、朝鮮由来のカルトに洗脳された輩ばかりとということと合致する。

だいたい、政教分離と言っても、政治と宗教は、長年、結びついていて切り離すことは出来ない。また、切り離すことは出来ないものである。切り離すとすれば、妄信や盲従させ、人心を狂わすカルトである。

 

その従来の仏教や神道と、カルトを混同して宗教としているところに、今の日本の不幸があると思う。



 

空腹が最高の調味料であるというように、
分け合うことは、最高の盛り付けである。