大手企業の主任として勤めていた父は発達障害、アル中、ギャンブル依存。専業主婦の母は不安障害、宗教依存。元顔黒ギャルの妹は発達障害気味。かく言う私は、鬱とパニック障害を併発した統合失調症。

 

 

こんな精神疾患のオンパレードな家族が未だかつて存在しただろうかという程に、ある意味見事な病症図である。

 

 

もっと言えば、両親のそれぞれの家系もかなりクレイジーに仕上がっている。

まあそれは追々話すとして、、、

 


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私が思うに、父と母は出逢うべきじゃなかったと、今でもよく嘆く。

 

 

父は、母が私を出産した時、何故か傍に居なかったし、名前を付けるのも何故か母一人で付けた。きっと人の気持ちを理解することが難しいのが発達障害だからなのだと思う。

 

 

そんな昔話を時々聞くことがあるが、その度に心を痛める。もうその時点であの二人の結婚は失敗だったんだろうなと、思わざるを得ない由々しき事態なのだ。

 

 

妹を出産した時も同じ。父はきっとこの頃からか、またはそのずっと前から発達障害だったのだろうと思う。

 

 

そんな父は、私がまだ三歳か四歳くらいの時に、母が信仰し始めた宗教のことで毎晩母を蹴り飛ばし殴り飛ばし。何が気に入らないのかはイマイチ解らないが、良いじゃないか、悪い事をしている訳ではないのだから、いちいち人のやる事に口出ししなくても。

 

 

そのクセ自分は借金してまでパチンコをやっているのだから、責めるのは自分自身の行いではないだろうか。

 

 

そして私と妹は毎晩泣き叫んだ。その暴力がどんどんエスカレートし、遂に父は土鍋の蓋で母の頭を殴るまでし、二階建ての一軒家のありとあらゆる壁や物が、母の真っ赤な血で染まった。

 

 

あの夜、あの時の恐怖を、今でも鮮明に覚えている。母の頭から吹き出した血が、目に焼き付いて離れないのだ。

 

 

父の母、つまり私の祖母も一緒になって母に暴力を振るっていたのだが、遂に耐え切れなくなって母は妹だけを連れて家出した。後から「何故私を置いて行ったの?」と訊くと、「お父さんが寂しがると思ったからよ」と母は言う。あれだけのことをされても、母は夫を想った。母はそういう人なのだ。

 

 

その数年後、母はあの祖母が難病(ALS)に罹った為に、世話をしてほしいという理由だけで家に連れ戻された。その時父と母の間でどういうやり取りが交わされたのかは定かではないが、暴力を振るう夫の元に戻るのはかなりの勇気がいったと思うし、強い躊躇いがあったと思う。でも母は戻った。理不尽な夫をもった母が、宗教に心を染めていったのも頷ける気がした。

 

 

祖母が亡くなってホッとした、と言ったら私は酷く糾弾されるだろうか。息子の嫁になった女が、息子より十五若かったくらいでその嫁をいびり倒し、目の前で頭から血を流しているその嫁を横目に睨み付け、救急車も呼ばなかった冷酷な祖母。難病に罹って、相当苦しんで亡くなったのは妥当だったと思う。

 

 

その後、父方の祖父も亡くなり、蜷川家は、父、母、妹、私の四人住まいになった。

 

実は母方の祖母は重い統合失調症で、母が幼い頃からずっと、亡くなる最近まで九州に在る精神病棟に入院していた。母方の祖父は母が小学生くらいの頃に自殺したらしい。母も母で、大変な苦労を重ねて来たのだ。親が居ない、というのは、子供にとっては本当に酷なことで、その反動でしっかり者になれば良いが、そうでない子供は親からの学びや愛情が得れない為に、少し歪に育ってしまう。それが私の母。いわゆるデキ婚で、二十歳という若い時に私を産んで、当然、子供の育て方なんて殆んど分からない状態だったから、私も歪に育ったし、妹も歪に成長した。

 

 

父方の祖父母が亡くなってから、何故か父は母に暴力を振るわなくはなったが、今度は酒乱になり、パチンコ依存が酷くなった。気付けば借金が云千万に膨れ上がり、身動ぎ出来ない状況になり、持ち家を売り、自己破産するにまで至ってしまった。その頃私が統合失調症に罹って、ますます蜷川家の事情は悪化の一途を辿って行くこととなった。

 


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学生の頃、私は母に洗脳されていた。

 

 

「悪魔が寄って来るので神社の絵を描いてはいけません」と教えられ、学年で私一人だけ校舎の絵を描いてとても恥ずかしい思いをした。「校歌を歌ってはいけません」「お友達の誕生日を祝ってはいけません」「運動会の騎馬戦もやってはいけません」。

 

 

母は信仰する宗教の教えを、まだ幼かった私に強要し、私は見事に洗脳され、母の言うことは正しいんだと思って過ごして来た。

 

 

けれど、それが私の人生を狂わせる一端となってしまったのは事実だ。実際、小学一年生の時、凄く仲の良かった親友が、初めて私の誕生日を祝おうと、プレゼントを私の家まで持って来てくれた時、母は受け取ってはダメと言い、私は泣く泣く親友に「ごめん」と謝ったが、あの時親友がどんな思いで帰って行ったかを思うと辛過ぎて。その直後、その親友は私から離れてしまった。母は「誕生日プレゼントくらいで関係を切るなんて、大したことのない関係だったのよ」と言い、その言葉に私が一頻り泣いたことなんて、つゆ知らず。

 

 

今でも母は事ある毎にその宗教の教えをあーだこーだと擦り込んで来るが、もう幼くはない私は、その教えに価値を見出せない時は頑に拒否出来るようになったし、自分の意見も拙いながら言えるようになっていた。母に悪気は無いだろうが、私にとっては害悪そのものでしかなかった。

 

 

でも私は母を責められない。母がああなってしまったのは、きっと母自身のせいではない。背景や環境がそれを物語っていると思う。むしろ、宗教という拠り所があって良かったとも思っている。誰しも支えが必要だ。母に宗教が無かったら、今頃蜷川家は壊滅していたことだろう。

 


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「テメェのせいで私の人生が狂ったんだよ!!」

 

 

そう言い放って妹は私の背中を思い切り蹴った。前にのめり崩れた私は痛みと悲しみで泣いた。そうだ。私が精神病なんかに罹らなければ、妹はもう少し人間らしい人生を送れたんだと思う。

 

 

私が家で大暴れするから。私が姉らしい事を一つもしてやれないから。私達姉妹の関係が悪くなったのも、妹が非行に走るようになったのも、全て私が悪いんだと、今でも自責の念に駆られる。

 

 

何故自分が統合失調症に罹ったのかは不明だが、前述を読むと何となく察しはつくだろう。けれども、私が犯して来た過ちは、たとえ持病の発端が自分じゃなかったとしても許される事ではない。数知れない精神病特有の奇行という暴力を振るいに振るって、二十年以上もの歳月を苦労でいっぱいにさせて。それでも母は私を産んで良かったと言ってくれる。

 

 

蜷川家の人間は、みんなどこかしらがおかしい。だから互いに傷付け合うことも多々あるし、円満にいっている家庭みたいな温かさを感じない。そんな中でも、父は家族をよく旅行に連れて行ってくれたし、夏休みの自由研究を手伝ってもくれたし、私がここに行きたいあそこに行きたいと言うと、嫌な顔一つせず車を出してくれもした。

 

 

母も私の病気を理解し、苦労はしたものの、めげずに辛抱強く一緒になって闘ってくれた。妹だって、私が精神病棟から退院した時、退院祝いのプレゼントを用意していてくれたし。

 

 

何だかんだ言っても私達は『家族』なのだ。

 

 

現在私は環境をガラリと変え、十四年連れ添って来た恋人と、半ば夫婦のように共に生活し、互いに支え合って何とか上手く暮らせている。

 

 

時々両親に会いに行くが、会う度に二人が老を感じさせるので、少しばかり気持ちが沈むこともある。父は今でもお酒とパチンコをやめれていない。その事で母もだいぶ苦労している。離れて暮らしているし、関わると体調を崩すので私はあまり介入はしないが、昔に比べたらみんな少し丸くなったのかなとも思う。妹も今は真面目に働いているみたいだし。

 

 

きっと、この先も問題は何かしら起こるだろう。耐性なんてついちゃいない。そういう時は必ず体調がおかしくなる。でも私はそういう家庭に生まれてしまったのだから、「仕方ない」としか言いようがない。悪い思い出の方が圧倒的に多いのもそうだけれど、ということは良い思い出も少なからずあるということで。

 

 

私だけが苦しんだ訳ではなかったので、機会があれば、私が逆に家族にしてしまった悪事をこの記事とは別に書こうと思う。

 


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そんなこんなで、私、蜷川ゆう子の家庭事情について書きましたが、私の過去や家族の事を語るとどうしても暗くなってしまうので、中には読んで気分を害された方もいらっしゃるのではないかと思います。

 

 

ただ、それ程までに私の半生は過酷だった、という事です。

ここまでのご読了、ありがとうございました。