今週になって騒がれてる、例の一件について。

時事問題について求められてないのに意見する主義じゃないけど、同じ音楽に携わる者として、やっぱり思うところはあります。









「自作である」と公言していた楽曲が実は他者によるものであったこと、そして代表作であるオーケストラ曲の由来が、宣伝文句とは裏腹にタイトルにあるテーマとはまったく関係がなかったこと、

これらがレコード会社や聴衆を欺いた虚偽だったことについては、弁解のしようはないかな、と思います。


今後さらに何らかの事実が明らかになって、彼の音楽家あるいは人としての資質が問われ裁かれていくことになるのかもしれません。



ただ、それが行きすぎないようにしてほしいと思います。
過剰に当事者が叩かれる傾向にある社会ですから、それが心配です。
作曲家であると公言してきた彼が、これからほんとうの意味での「真作」を造り上げるチャンスも、あっていいとぼくは思います。本当にアーティストとしてのプライドを持った芸術家であれば、求められなくとも挑むでしょう。
そのとき出来上がった作品を、聴いてみたいと思いませんか?


そして、楽曲についても。
爆発的な売れ行きを記録した楽曲が突然に居場所を失ってしまった今、どんな扱いを受けるのかということ。


仮にですね、同じように人生半ばにして聴覚を完全に失ったベートーヴェン。彼のゴーストライターが存在し、すべてとは言わずとも代表曲の大部分がベートーヴェン本人の手によるものでないとしたら…

たとえそうだとしても、名曲は名曲であり続けるだろうし、数百年にわたって聴く者を鼓舞し感動させてきた事実は揺るがないと思う。

もちろんぼくは、ベートーヴェンにはゴーストライターなどいなかったと100%確信しています。仮の話をしただけです。


いずれにせよ、冷静でバランスの取れた反応をしてほしいと思います。
損失は計り知れないでしょうね。これ以上、残念なことが起きないことを願います。






最後に個人的な所見を言わせていただくとするなら…


ゴーストライターという立場が商業上成り立つものであれば、それはそれで否定されるべきものでもないように思います。
産み出される作品が真に価値あるものであれば、それはそれで素晴らしいことです。
もちろん、人を欺くような行為やウソを伴わないという前提ですが。

しかし、音楽を「造る」いち音楽家としてのぼく自身の思いとしては、ゴーストライターを立ててまで自分の名前を残したいとは思いません。
ぼくは自分自身の足で、モーツァルトやベートーヴェンに、たった1歩でも近づけたら素敵だなと思います。もちろん、彼らの背中が見えるところまでいくことすら不可能に近いだろうけど、そのために努力したことがぜんぶ無駄だったということには絶対ならないだろうし、いろんな人のちからを借りながらも自分の足で歩き、そして最後に辿り着く場所がどこなのか、とても興味がある。
ぼくはその、最後に自分がいるべき場所に、辿り着きたいと思う。
思い描いた夢のとおりにいかなくったってね。それはそれで満足だろうと思う。










もし、聴覚を失い、幼い頃から夢見た音楽の道をこれ以上進むすべを志半ばで失ってしまったのなら、それは確かに辛い挫折だったろうし、そのことじたいは同情されるべきだと思う。


それが事実ならね。