今日(10/25)が何の日か、ご存知ですか?
…母上には幼時より御苦労ばかりおかけし、不孝の段、お許し下さいませ。
今回 帝国勝敗の岐路に立ち、身を以って君恩に報ずる覚悟です。
武人の本懐 此れにすぐることはありません。
…御両親に於かれましては、本当に心から可愛がっていただき、その御恩に報いる事も出来ず征く事を、御許し下さいませ。
本日、帝国の為、身を以って母艦に体当たりを行い、君恩に報ずる覚悟です。
皆様御体大切に。
父上様、母上様。
23歳の若者が、両親に宛てて「遺書」としてしたためたものです。
読んでお気づきかと思いますが、これは太平洋戦争末期、「特攻」という、爆弾を搭載した戦闘機もろとも敵艦船に体当たりする作戦で戦死した戦闘機パイロットの遺書です。
そしてこれは、そのあと10ヶ月にわたり正規の作戦として運用された、この“戦死前提”の作戦で戦死した数千人もしくは1万数千人とも言われる特攻隊員の、最初のひとりとなった若者のものです。
関 行男(せき ゆきお)
1921年8月29日 - 1944年10月25日
大日本帝国海軍大尉(二階級特進により中佐)、戦闘機搭乗員。
1944年(昭和19年)の、きょう。
10月25日。
神風(しんぷう)特別攻撃隊《敷島(しきしま)隊》を指揮し、250kg爆弾を胴体下に搭載した零式艦上戦闘機で、フィリピン・レイテ沖で敵の艦隊に突入、部隊共同で護衛航空母艦を撃沈する戦果をあげています。
23歳でした。結婚して5ヶ月。
上に引用した「遺書」とは別に、ある記者に向かってこんな発言をしたとも言われています。
「報道班員、日本もおしまいだよ。
僕のような優秀なパイロットを殺すなんて。
僕なら体当たりせずとも、敵空母の飛行甲板に50番(爆弾)を命中させる自信がある。
僕は天皇陛下のためとか、日本帝国のためとかで行くんじゃない。
最愛のKA(妻のこと)のために行くんだ。命令とあらば止むを得まい。
日本が敗けたらKAがアメ公に強姦されるかもしれない。
僕は彼女を護るために死ぬんだ。
最愛の者のために死ぬ。
どうだ、素晴らしいだろう」
彼がどこまで本音を語ったかは、わかりません。
いずれにせよ、69年前の今日の出来事や、それ以後 終戦まで続けられたこの作戦についての話題は、数えきれないほど取り上げられてきました。
だから今、ぼくはここで何か新しいことをつけ加えるつもりはありませんし、そこまでの知識もまだありません。
また個人的には、この作戦や払われた犠牲を美化すること
あるいは、逆に彼らが惨めなムダ死にをしたかのような捉えかた
そして、このことをなんらかの政治的主張に関連づけること
これらの考えとは、はっきりと線を引くつもりです。
ぼくが言いたいのは、ただ「忘れないでほしい」ということです。
特攻隊員のかたの体験談について伺ったことを書いた記事、「戦争のこと(2)」に、そのことを詳しく書きました。
(よかったらご覧になってください)
忘れることは危険なことです。
戦争とは何なのか…
兵士として戦場に行った人にとって
残された家族にとって
「その時」を生きた、そして死んでいったすべての人にとって
「その後」を生きてきた人にとって
彼らが忘れようとした悪夢を、ぼくらは忘れないように語り継いでいかなければいけないのは、皮肉でもありますが。
過去から学ぶということは、大きな“連帯責任”として、ぼくらの肩に乗っています。
ぼくがなぜこんなことを考えるのか、ぼく自身と戦争とのつながりについては「戦争のこと(3)」で書きました。
その中で書いた、自分の生まれ持った立場について、
その立場にいる自分なりに、出来ることをしていく ある程度の社会的責任があると思っています。
それが、いま敢えて深く考える人が少なくなってきている昔のことについて、こうやって文章にすることであり、
なにより、自分にとっての“言語”でもある音楽で、そのことを語っていくことです。
どこまで出来るかはわかりません。
でも、やってみる価値はあると信じています。
音楽が持つ“力”を信じる者のひとりとして。
…母上には幼時より御苦労ばかりおかけし、不孝の段、お許し下さいませ。
今回 帝国勝敗の岐路に立ち、身を以って君恩に報ずる覚悟です。
武人の本懐 此れにすぐることはありません。
…御両親に於かれましては、本当に心から可愛がっていただき、その御恩に報いる事も出来ず征く事を、御許し下さいませ。
本日、帝国の為、身を以って母艦に体当たりを行い、君恩に報ずる覚悟です。
皆様御体大切に。
父上様、母上様。
23歳の若者が、両親に宛てて「遺書」としてしたためたものです。
読んでお気づきかと思いますが、これは太平洋戦争末期、「特攻」という、爆弾を搭載した戦闘機もろとも敵艦船に体当たりする作戦で戦死した戦闘機パイロットの遺書です。
そしてこれは、そのあと10ヶ月にわたり正規の作戦として運用された、この“戦死前提”の作戦で戦死した数千人もしくは1万数千人とも言われる特攻隊員の、最初のひとりとなった若者のものです。
関 行男(せき ゆきお)
1921年8月29日 - 1944年10月25日
大日本帝国海軍大尉(二階級特進により中佐)、戦闘機搭乗員。
1944年(昭和19年)の、きょう。
10月25日。
神風(しんぷう)特別攻撃隊《敷島(しきしま)隊》を指揮し、250kg爆弾を胴体下に搭載した零式艦上戦闘機で、フィリピン・レイテ沖で敵の艦隊に突入、部隊共同で護衛航空母艦を撃沈する戦果をあげています。
23歳でした。結婚して5ヶ月。
上に引用した「遺書」とは別に、ある記者に向かってこんな発言をしたとも言われています。
「報道班員、日本もおしまいだよ。
僕のような優秀なパイロットを殺すなんて。
僕なら体当たりせずとも、敵空母の飛行甲板に50番(爆弾)を命中させる自信がある。
僕は天皇陛下のためとか、日本帝国のためとかで行くんじゃない。
最愛のKA(妻のこと)のために行くんだ。命令とあらば止むを得まい。
日本が敗けたらKAがアメ公に強姦されるかもしれない。
僕は彼女を護るために死ぬんだ。
最愛の者のために死ぬ。
どうだ、素晴らしいだろう」
彼がどこまで本音を語ったかは、わかりません。
いずれにせよ、69年前の今日の出来事や、それ以後 終戦まで続けられたこの作戦についての話題は、数えきれないほど取り上げられてきました。
だから今、ぼくはここで何か新しいことをつけ加えるつもりはありませんし、そこまでの知識もまだありません。
また個人的には、この作戦や払われた犠牲を美化すること
あるいは、逆に彼らが惨めなムダ死にをしたかのような捉えかた
そして、このことをなんらかの政治的主張に関連づけること
これらの考えとは、はっきりと線を引くつもりです。
ぼくが言いたいのは、ただ「忘れないでほしい」ということです。
特攻隊員のかたの体験談について伺ったことを書いた記事、「戦争のこと(2)」に、そのことを詳しく書きました。
(よかったらご覧になってください)
忘れることは危険なことです。
戦争とは何なのか…
兵士として戦場に行った人にとって
残された家族にとって
「その時」を生きた、そして死んでいったすべての人にとって
「その後」を生きてきた人にとって
彼らが忘れようとした悪夢を、ぼくらは忘れないように語り継いでいかなければいけないのは、皮肉でもありますが。
過去から学ぶということは、大きな“連帯責任”として、ぼくらの肩に乗っています。
ぼくがなぜこんなことを考えるのか、ぼく自身と戦争とのつながりについては「戦争のこと(3)」で書きました。
その中で書いた、自分の生まれ持った立場について、
その立場にいる自分なりに、出来ることをしていく ある程度の社会的責任があると思っています。
それが、いま敢えて深く考える人が少なくなってきている昔のことについて、こうやって文章にすることであり、
なにより、自分にとっての“言語”でもある音楽で、そのことを語っていくことです。
どこまで出来るかはわかりません。
でも、やってみる価値はあると信じています。
音楽が持つ“力”を信じる者のひとりとして。