
沖縄で戦死した兄・治三郎さんの写真(右の立っている人物)を手にする岩崎三之利さん=大津市で2023年6月16日午後4時44分、飯塚りりん撮影
「『家族もいるのに、今ここで死んだらあかん』と、無念やったろう」。山上村(現・滋賀県東近江市)出身の岩崎三之利(みのり)さん(89)=京都市右京区=は、長兄の治三郎さん(当時23歳)が戦死したとされる沖縄戦の激戦地跡で感じた思いを胸に140回以上、県内外で語り部を続けてきた。「戦争を知っている人も、知ろうとする人も減っている。伝えなければ、兄に申し訳ない」。23日は沖縄戦の組織的な戦闘が終結した「慰霊の日」。
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8人きょうだいの長男だった治三郎さんは1942年、20歳で徴兵検査のために中国・海南島から帰郷したが、すぐに召集令状が届いた。当時8歳だった岩崎さんは兄に「おめでとう」と声を掛けた。「『無事に帰ってきて』との本心を言えるような時代じゃなかった」と振り返る。
◇一度だけ届いた手紙「沖縄に来た」
1週間後、村人たちは日の丸を掲げ、軍歌を歌いながら治三郎さんを見送った。人々が帰っても母だけは小さくなっていく兄の背中をいつまでも見つめていたのを覚えている。治三郎さんは滋賀や京都の出身者が多い旧陸軍第62師団の一員として中国に送られ、44年8月に沖縄に移った。一度だけ「沖縄に来た」と書かれた手紙が届き、家族は幾分は近づいたと喜んだが、その後手紙が届くことはなかった。
45年8月に戦争が終わると村から出征した人たちは次々と復員したが、兄は帰ってこなかった。「沖縄は全滅らしい」と村中でうわさが飛び交っていた。終戦から1年以上たった46年11月、村役場の職員が自宅を訪れ、兄の戦死を伝えた。母はすぐに仏壇に線香を供え「ごくろうさんでした」と手を合わせた。出先から帰宅した父もすぐに線香の匂いに気付き、「やっぱりか」とつぶやいた。
約2カ月後、白い布に包まれた箱に入った「岩崎治三郎の霊」と書かれた10センチほどの木札が届いた。その夜、母は遺骨のない墓に向かって「心があるなら出てきておくれ」と涙を流して呼び掛けていた。
◇戦後69年、慰霊塔前の石を両親の墓に
岩崎さんは80歳になった2014年、「兄はどんなところで死んだんだろう」という長年の思いを晴らすために兄の最期の地、沖縄県浦添市を訪れた。沖縄戦から69年がたっていた。激戦地となった同市の前田高地の一角にある、市内各地で死んでいった身元が分からない民間人や軍人を弔う「浦和の塔」に行き、他界した両親と来られなかったきょうだいの写真を手に「遅くなってごめん」と手を合わせた。そして塔の前の石を一つ拾って持ち帰り、両親の墓に納めた。
この旅が地元紙に掲載されたことをきっかけに、沖縄の男性が第62師団の小隊長だった山本義中さんが出版した「沖縄戦に生きて」を送ってくれた。同書によると、兄は中国での戦歴を評価されて最前線に配属されたが、上陸してきた米軍の圧倒的な軍事力に部隊は全く太刀打ちできなかった。そして4月7日ごろ、夜襲をかけた際に戦死したとあった。兄の部隊48人中、戦死者は46人だった。
◇体験の風化と平和のほころび痛感
岩崎さんはその後約10年間、戦時中の写真を使いながら語り部をしてきた。兄が中国から持ち帰った唯一の遺品であるヤシ製のたばこ入れも、多くの人に見てもらおうと県平和祈念館(東近江市下中野町)に寄贈。しかし、50代の娘や20代の孫に戦争の話をすると「時代が違うよ」と言われ、講演会では「戦争の写真は見たくない」と言われることもあり、戦争体験の風化を痛感する。
一方、ロシアによるウクライナ侵攻など平和のほころびの実感は強くなるばかりだ。「人間の欲が重なることで起こる戦争で、命を失い、大切な人を奪われる苦しみを繰り返してはいけない」。今年で90歳になる岩崎さんは「自分もいつ死ぬかわからない。私にとっては伝えていくことが使命。兄も『自分の代わりに』と背中を押してくれている」。
毎日新聞2023年6月23日閲覧
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