
大河ドラマであり、SFであり、戦争作品であり、人間ドラマであるガンダムシリーズは、日本のアニメ作品の中でも特異なポジションにある。富野由悠季監督が1作目を手がけた後、多くの作り手の元でさまざまなアプローチが試みられ、40年以上の歳月にわたり愛され続けてきた。そして現在、富野監督によって生まれ、新たな作り手に受け継がれた『機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ』が、大ヒットを記録している。この記事ではガンダムシリーズの魅力と、本作がどのようにそれを受け継いでいったのか、考えてみたい。
【写真】『閃光のハサウェイ』声優を務めた小野賢章×上田麗奈
『機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ』は『機動戦士ガンダム』の生みの親である富野由悠季監督が、1989年から90年に発表した同名小説を基にした作品だ。ガンダムファンには特に人気が高く、30年の時を経て待望の映像化ということもあって、高い注目度を集めていた。本作は3部作構成の1作目、また劇場でのBD販売などもある中での興行収入15億円以上の大ヒット(2021年6月末時点)を記録しており、この数字からもファンがどれほど待ち望んでいたのか伺える。
人気の理由の1つは高い映像クオリティだろう。実写のような映像表現が多く、冒頭の宇宙から船内へとカメラが入り込む描写などの奥行きなどは、絵で作られたアニメだとは思えないほどだった。登場人物たちの細かな所作、あるいはガンダムシリーズの目玉であるモビルスーツの戦闘シーンの迫力などは、多くの観客の度肝を抜いた。
本作中盤では市街戦が展開される。誰もが寝静まった深夜に、ホテルに宿泊している政府高官の命が、突如襲来するモビルスーツに狙われていく。そしてそれを阻止するために動き出す地球連邦のモビルスーツたちとの戦いが始まるのだ。ここでは夜ということもあり、暗い中で浮かび上がるモビルスーツの威圧感や重厚感が、特に際立っていた。
そして恐ろしいのは流れ弾などによって、一般市民にも多大な影響が出てくる場面だ。真っ暗な宵闇の中だからこそ、火花の赤やビームライフルの色が激しく光り、それが死をもたらす恐怖を際立たせる。逃げ惑う人々を、ビームライフルの流れ弾が容赦無く、一瞬で蒸発させていく。そういった過酷な戦闘描写が容赦無く描かれていた。
ガンダムシリーズが、なぜ他の戦争やロボット同士による戦闘を描いたアニメ作品よりも高い人気を獲得したのか。その理由の1つが、この容赦のない戦闘描写や思想だ。富野由悠季は『無敵超人ザンボット3』などでも戦争に巻き込まれる一般市民や、その戦闘を持ち込む主人公たちを容赦無く攻撃する市民を描いている。主人公たちを、自分たちを守る正義の味方として褒め称えるのではなく、より現実の戦争・戦闘に近い姿として描き抜いてきた。
その精神は他のガンダム作品でも受け継がれており、『機動戦士ガンダム0080 ポケットの中の戦争』の中でも、市街戦により一般市民に被害が出る描写が容赦無く描かれる。「戦わなくてはもっと人が死んでいた。仕方がなかったんです」と話す主人公クリスに対して、「死んでも仕方のない命など1人もいない」と答える刑事の言葉に、様々な思いがよぎる人もいるだろう。
また近年でも『機動戦士ガンダムUC』では、主人公のバナージが、連邦やジオンなどの憎み合い、敵対する人々と交流を重ねていく。家族を大切にし、仲間と笑い合う普通の人々が戦い合い、命を散らしていく。正義や悪でくくれる簡単な思想ばかりではない。戦争や戦闘の無惨さ、その悲しみを正面から描いている。ガンダムシリーズは架空戦記ではあるものの、戦争に対して誠実に向き合い続けたシリーズの1つでもあることが伺える。
とても“人間らしい”性格のハサウェイ
一方で、今作の複雑さを増しているのは、ホテルに宿泊している政府高官の命を狙う事件を起こしたマフティー・ナビーユ・エリンという人物の正体が、他ならぬ主人公のハサウェイ・ノアであるという点だ。連邦の大佐であり、多くの戦争で英雄的活躍を果たしたブライト・ノアの息子が、地球連邦に敵意を向けるテロリストのマフティーであるという点にも注目したい。
マフティーは思慮深くスマートな印象があると語られているが、ハサウェイからもその印象を受ける人は多いだろう。一方で、舞台挨拶でハサウェイ役の小野賢章が「彼にはカッとなってしまう短絡的な一面がある」と語っている。この一面は作中でも何度も現れており、最初のテロリスト鎮圧の場面でも短絡的に飛び出し、危うく命を失いかけたり、あるいは市街戦の際にも、計画通りの行動を行わず、突発的にヒロインのギギと共に逃げ回るという場面が描かれている。
このハサウェイの短絡性と思慮深さの両面性というのが、この作品の見どころの1つだ。ハサウェイという一面と、マフティーとしての一面、その両方をもちながらも、どちらか一方に偏ることはない。マフティーの思想に感銘を受ける人々もいれば、「彼は暇なんだよ。一般市民には明日を考える暇はない」と語る人もいる。彼の行動はいくらでも金額を引き出せる利便性の高いカードに代表されるように、一方的な強者である連邦やシステムを倒し、変革することにある。しかし、だからといって弱者が熱烈に支持する正義の味方でもない。
この両面性はケネス大佐とギギによって、さらに強調されていく。 本作の中ではギギがまだ言動が幼いながらも、時折鋭いことを放つ少女(子供)であり、ケネスがすでに成熟した大人の男であることを強調している。冒頭においてギギが「子供の論理って正しいこともありますよ?」と話すと、ケネスは「世の中、そんなに簡単に動いていない」と返す。また客室乗務員であるメイス・フラゥワーをケネスが口説く会話の中では、自らがすでに子供の頃とは違い、歳を重ねた大人であることを繰り返し強調しているのだ。
その間に挟まれたハサウェイは、その子供じみた純粋な理想を抱えながらも、大人のような思慮深さも兼ね備えている面も併せて描かれている。その揺れ動く両面性にこそ魅力が宿る。
思えば、それが最も人間らしい描写とも言えるのではないだろうか。例え相対する組織のどちらかに属していても、100%その思想に染まっているということは少ない。時には揺れ動きながらも、自分の立場を選び進んでいくものではないだろうか。
テロリズムは現代の価値観では決して許されるものではない。しかし、その行動でしか変えられないものがあると信じるハサウェイの葛藤とドラマこそが、富野由悠季が描いてきた戦争と人間のドラマとも通じるものがあり、今作はそれを余すことなく宿している。
2021年7月8日閲覧