昭和11年、陸軍の軍人だった渡辺錠太郎は、二・二六事件で殺害された。優秀な彼の死を惜しむ声も多かったというが、どのような人物だったのか。

「生きていれば戦争は避けられたのではないか……」。そう惜しまれている陸軍の軍人がいる。二・二六事件で殺害された、渡辺錠太郎である。その死の背景に迫ると、あり得たかもしれない「もう一つの未来」が浮かび上がってくる。

※本稿は、『歴史街道』2021年4月号の特集「『昭和の陸軍』光と影」から一部抜粋・編集したものです。

永田鉄山が評価した軍人

昭和11年(1936)2月26日、「昭和維新」を目指す青年将校らは、麾下の部隊を率いて政府や軍の要人を襲撃する事件を起こした。

この時、襲撃を受けて殺害された軍・政府の要人は内大臣の斎藤実(海軍大将)、大蔵大臣の高橋是清、陸軍教育総監の渡辺錠太郎(陸軍大将)である。総理大臣の岡田啓介(海軍大将)も襲撃を受けたが難を逃れ、侍従長の鈴木貫太郎(海軍大将)は重傷を負うも一命をとりとめる。二・二六事件である。

この事件は、陸軍内部の派閥抗争に、社会情勢を憂う青年将校の過激な正義感が絡み合って引き起こされ、日本の行く末に大きな影響を与えた。渡辺は、その派閥抗争の一方の当事者だったのである。

渡辺のことを「参謀総長要員だよ」と高く評価したのは、陸軍の逸材として期待された永田鉄山である(高宮太平『軍国太平記』)。参謀総長は教育総監と並ぶ陸軍三長官の中でも軍の「統帥」を担っている。閣僚ではないが、政治にも大きな発言力を持つ。

仮に渡辺が生き残っていたとして、本当に参謀総長になっていたかはわからない。しかし、彼の盟友であり、士官学校同期でもあった林銑十郎が教育総監から陸相、後には総理大臣にまでなったことを考えると、渡辺の参謀総長や陸相の可能性は決して低くない。

そして、「渡辺が生きていれば戦争は避けられたのではないか」と悔やむ人もいる。彼らはなぜ、そう思ったのか。渡辺の何が、そのような「歴史のif」を想起させるのだろうか。

「非戦」の信念を培った歩み

渡辺錠太郎は、明治7年(1874)4月16日、愛知県東春日井郡小牧村(現・小牧市)で父和田武右衛門、母きののもとに生まれた。学校は小牧学校(現・小牧小学校)に通っていたが、中退し、隣村の岩倉村に住む伯父渡辺庄兵衛の家へ養子に入る。

小学校で数年間しか学ばなかったものの、渡辺の勉学への意欲は並々ならぬものがあった。養父(庄兵衛)の畑仕事を手伝いながら、懐には幾何や代数の書物をしのばせた。仕事の合間にこれらをひもとき、問題を解いたり解説を読み込んだりしたのである。

この経験から、労働と学問は両立する、むしろ労働の直後の方が難しい数学の問題などは解ける、という持論を持つに至った(津田應助『渡邊前教育総監の郷土小牧の生立』)。

「月給の大半を丸善(書店)に支払う」(『軍国太平記』)と後年まで言われた渡辺の学問、読書への強い関心と向上心は、少年時代からのものだったのである。

そうして勉学に励む渡辺は、ある時軍服を着た陸軍青年将校の姿を見て、軍人に憧れを抱くようになる。そのためには士官学校(海軍は兵学校)に入る必要があるが、優等生が集まる士官学校は、渡辺のような者にとり、相当難しいと思われた。

しかし、渡辺は周囲の予想を覆した。明治27年(1894)8月、受験生の中でもトップクラスの成績で合格したのである。林銑十郎が回顧したところによると、試験会場で「紺がすりに袴をつけた朴訥然とした男」、渡辺錠太郎の姿はとりわけ目立っていたという(岩倉渡邉大将顕彰会『郷土の偉人 渡邉錠太郎 増補版』)。

卒業後の渡辺は、歩兵第36連隊付などを経て、今度は陸軍大学校へと入学する。士官学校より狭き門だが、卒業時の渡辺は首席で、恩賜の軍刀を授かる栄誉を勝ち取った。

明治37年(1904)2月、大尉となっていた渡辺は、友人の紹介で野田すずと結婚するものの、間もなく日露戦争に動員され、戦地へと渡った。

渡辺の初陣は、かの有名な旅順要塞攻略戦、その第一回総攻撃である。8月19日から24日まで行なわれたこの作戦は失敗に終わり、渡辺は足を負傷する。彼は野戦病院に搬送され、さらに内地の病院へと送られた。

傷は二ケ月ほどで癒えたが、そのまま内地に留められ、ポーツマス条約の締結によって戦争は終結した。そして明治38年(1905)9月、維新の立役者の一人であり、陸軍創設の功労者、山県有朋の副官となる。

渡辺の回想によれば、山県もまた相当な読書量を誇ったらしい。特に軍事に関しては熱心で、新刊書は副官に通読させ、大事な部分には傍線を引かせた。自らもその書籍を通読し、傍線の位置が不適当だったりすれば、「剰(あま)す所なく急所々々に就て質問を発」するという徹底ぶりだった(入江貫一『山縣公のおもかげ附追憶百話』)。

常人であれば気の休まらない、仕えたくない人間だろう。しかし実力で道を切り開いてきた渡辺にとって、この経験は良い糧となった。

後年まで、渡辺は「尊敬するのは山県元帥一人」(『軍国太平記』)であったし、ドイツ留学を挟んで二度(明治38年9月~40年〈1907〉2月、同43年〈1910〉11月~大正4年〈1915〉2月)、副官を務めたことを考えても、信頼されていたと見ていい。

さらに大きな経験は、第一次世界大戦後の欧州視察である。この戦争は、人類が経験した初の「総力戦」であり、交戦国それぞれを大きく疲弊させた。特に敗戦国側で主力を担ったドイツの被害は甚大で、渡辺の衝撃も大きかった。

渡辺は、大正9年(1920)5月に約一年のドイツ視察を経て日本に戻るが、この時取材に訪れた「新愛知」(郷土の新聞)の記者とのやりとりが、その衝撃の大きさを物語る。

記者は取材の終わりの方で「いよいよ、これからは、日本も世界の軍事大国ですねえ」と述べたのだが、渡辺は右手を高く挙げてこれを制止した。

彼は、「産業経済や国民生活がそれに伴なっての大国ならばよろしいが」と、「軍事大国化」の危険性を指摘し、「総力戦」では勝敗無関係に悲惨な目に遭う、それゆえ「どうでも戦争だけはしない覚悟が必要である」と記者を諭したのであった(『郷土の偉人 渡邉錠太郎 増補版』)。

渡辺の非戦論は空想的なものではなく、「固陋なる精神万能主義より来る肉弾戦術」と、旧来の陸軍の考えを批判し、「防空」の重要性を主張するなど、むしろ「国防体制を整える」に主眼が置かれていたといえる。

合理的な防備を整えることで他国に「戦争」を断念させ、最悪の場合でも極力被害を抑える、というものだ(拙著『渡辺錠太郎伝』)。これは生涯、渡辺の揺るがぬ信念となった。

なぜ青年将校に狙われたか

帰国から二・二六事件までの渡辺の履歴を簡単に記すと、日本に帰った大正9年の8月に少将に進級、14年(1925)5月には中将となり、陸軍大学校の校長に就任した。

翌年3月、第7(旭川)師団長として北海道に赴く。その後は陸軍航空本部長や台湾軍司令官を経験し、昭和6年(1931)8月、ついに陸軍大将となる。

しかし、この時すでに軍内部では不穏な動きが頻発していた。昭和6年には、橋本欣五郎ら「桜会」のメンバーを中心とするクーデター計画(3月事件、10月事件)が発覚する。

さらに、陸軍の改革を目指して活動していた俊秀の三人、小畑敏四郎、岡村寧次、そして永田鉄山のうち、小畑と永田が激しく対立する。

彼らは荒木貞夫、真崎甚三郎、林銑十郎らを担いで陸軍の改革を行なおうとしていたが、当時脅威だったソ連への対応などを巡って衝突したのである。荒木は小畑を重用し、永田を疎んじるようになる。

荒木は昭和6年12月に成立した犬養毅内閣で陸相に就任し、参謀総長には皇族の閑院宮載仁元帥を戴いた。「皇族」という権威を活用すると同時に、皇族ゆえに実務にタッチさせられないということで、盟友の真崎甚三郎を参謀次長にもってきた(岩村貴文『渡邉錠太郎:軍の本務は非戦平和の護持にあり』)。

こうして人事を牛耳り、荒木と真崎を中心とする皇道派は全盛時代を迎えた。しかし、荒木が陸軍の予算を思い通りに獲得できないと、当初彼らに期待した若手のエリート将校は失望するようになる。

さらに「皇道派」専横の人事への憤りもあり、荒木、真崎らは次第に軍の中枢から遠ざけられていく。その対抗馬となったのが林銑十郎であり、支えたのが永田鉄山、そして渡辺錠太郎であった。

皇道派と、対抗するグループ(現在、統制派と呼ばれる)との抗争の経緯については、ここでは詳しく触れない。

概要を記せば、参謀次長から教育総監に異動した真崎が、永田や渡辺の支援を受けた林によって更迭され、その後任に渡辺が就いたことが、真崎らを慕う青年将校の怒りを買った。

しかも「天皇主権説」に立つ青年将校にとって、渡辺は「天皇機関説」を支持していると噂(彼らは事実と思っていた)される人物で、激しい攻撃の対象となっていた。渡辺が教育総監になったのは昭和10年(1935)7月のことだが、すでに自分が殺されることを覚悟していた。

実際、事件当日は襲撃部隊に対して持っていた拳銃弾が空になるまで応戦している。死の前には、青年将校らの政治的行動を激しく批判し、軍紀の紊(みだ)れを痛憤している(『渡辺錠太郎伝』)。

「下剋上」を拒絶する強さと知性

では、渡辺が生きていれば歴史はどうなったか。渡辺をよく知る新聞記者の高宮太平は、「渡辺は内に火のような正義感を持ち、平素はそれを深く蔵してあらわさなかった。けれども、一度決心すると何者もおそれない。それはみずから求むることのない者のみが持つつよさであった」と評する(高宮太平『昭和の将帥』)。

そして、もし渡辺が陸軍の実権を握ったならば、永田とは違った方向から内部を粛清しただろうと。それは「道理をもって邁進する」ことであり、そこからはずれたものは仮借なく粉砕し、派閥などは決して許さず、一大鉄槌を下すだろう。安穏な死を迎えることはできないだろうが、渡辺ほどの人間なら「戦争への暴走」はある程度阻止しえたのではないか、と(同書)。

実際、渡辺は当初は派閥抗争とは無縁で、外部からみても目立つ存在ではなかった。軍人として政治に関与することを避け、ただ自分の職務にのみ忠実だった。

それが林を助け、さらに教育総監となり、永田が殺害されてからは真崎の責任を激しく問い詰めるなど、明確に闘志を燃やして行動した。死を覚悟して。それは高宮が言うように、私心のうすい渡辺だからこそできたことだろう。

渡辺を惜しんだのは高宮だけではない。昭和18年(1943)3月、すでに太平洋戦争が相当不利な局面を迎えていた時、宇品にあった陸軍の船舶司令部の司令官・鈴木宗作(中将)は、参謀の堀江芳孝少佐に対し「渡辺教育総監は非常に高い見識と広い国際感覚を持っておられたのにこれを殺すなどもっての他」と述べている(堀江芳孝『辻政信 その人間像と行方』)。

鈴木は、士官学校24期で、陸大は渡辺と同じく首席で卒業するという知性派であった。のちにフィリピンで戦死し、死後大将に進級する。堀江によれば、鈴木は軍人の政治関与を批判し、陸軍は滅亡するだろう、と悲観していた(同書)。

戦争が不利になった時、現役の将軍が思い出す人物が渡辺だったというのは、注目に値する。現役、予備役含めて数多くの人材がいる中で、開戦前に死んだ渡辺錠太郎という人物は、「もし生きていれば」と痛感させるだけの軍人だったということだろう。

渡辺は、派閥を作らず、下(部下)を甘やかすこともなかった。それゆえ、高宮が言うように、陸軍を統制する際は、真正面からの「正攻法」が考えられる。「開戦か否か」という時に参謀総長であれば、当然ながら「戦争を避ける」方を選び、突き上げてくる部下にも妥協しなかったと思われる。

そうして陸軍の主戦派である参謀本部の第一部(作戦)を抑えられれば、あるいは戦争回避に一筋の光明が見えたかもしれない。そこまですれば、渡辺はやはり命を失い、また軍内部で多少の騒動もあり得たが、戦争で数百万の人命が失われることは避けられただろう。

「下剋上」と言われる昭和陸軍で、渡辺はその「下剋上」を拒絶するだけの強さと知性を兼ね備えていた。この資質と強情にも見える人格は、戦争を防ぎ得た数少ない可能性だった。しかし渡辺は、その強さと知性故に憎悪され、非業に斃れた。歴史の皮肉という他はない。


歴史街道2021年3月25日閲覧